『海の色は何色』25

 *


 プロポーズした次の日から、僕たちは結婚式の準備をすぐに始めた。


 まず、僕と真彩で田中夫妻に挨拶。事前に話を通していただけあって、会話はスムーズに進んだ。


 真彩の祖父の件については、一真たちが連絡を取ってくれるという。その上で、式の日程や段取りも決める予定だ。




 次に僕の親族 ____ 父への挨拶をする番がきた。


 そして、ちょうど今、僕は父に電話を入れようとしている。公衆電話から。


「和臣さん、冷や汗かいてるけど平気?」


「き、気のせい、じゃないかな。うん」


 僕は明らかに動揺している。


「何を話すの?」

「そりゃ結婚することになった、って……」

「どういう風に説明するの? 結婚式には来てもらうの?」


 そこで僕は口ごもってしまった。


「……痛いところ突いてくるね?」

「だって、もし私があなたのお父さんの立場なら、まず一番最初に『結婚式に出席してもいいか』を懸念するもの」


 そうだろうか。僕の思い出の中のあの人は、そんな感情を持ち合わせているとは思えないのだが。


 すると真彩は、そんな僕の内心を見透かしたかのような言葉を放った。


「親なら誰だって、子の晴れ舞台は見たいと思うはずだよ」

「そんなもんかな」

「そうだよ」


 真彩に言われると、そんな気がしてきた。ただ、依然として僕の手は受話器に向かない。電話はそんな僕の気も知らずに、悠々と構えて待っている。


 その状態がほんの数十秒続く。僕には五分くらいの長さ感じた。


 そして、痺れを切らしたのだろうか。ついに、真彩が受話器を奪うようにして取り上げた。


「番号はこのメモ通りでいい?」

「あ、え、いいけど、ちょっと何するつもり?」

 と自分で聞いておきながら、なんて馬鹿げた質問をしているのだろうとも思った。だって、真彩がこれからしようとしてることなんて、その行動を見ていれば誰だってわかる。


「私から電話する」

「うん、それはわかった。でも、初めてなのに大丈夫……?」

「……和臣さんは、私の両親と初対面なのに、私のことが好きだって伝えてくれたよ」


 電話ボックスの中は大人二人が入るには狭すぎて、僕らの距離はほとんどゼロに近い状態だった。昨日今日、告白したばかりの初々しいカップルは、お互いどことなくよそよそしい。しかし、というか、だからこそ、というか、真彩の淀みない目は僕の心に真っ直ぐ突き刺さるのだ。


「だから、今度は私の番」


 有無を言わせぬような力のこもった声に、僕は少し圧倒される。それでも、ここで引き下がるのは男として、というか人としてどうかと思う。だから僕は、首を横に振った。それだけだった。


「もしかして、私の疾患について心配してるわけ? この前、説明したよね? 和臣さんが入院してる間に治療始めたから、大丈夫だって」

「いや、そんなのじゃなくて、普通に……」

 本当のことを言っているのに、僕の声はどこか嘘っぽく聞こえてしまう。


 しかし真彩はとくに気を取らず、「じゃあかけるよ」と言って、テレホンカードを差し込み、メモの番号を丁寧に押し始めた。変わった番号だね、と真彩が話しかけてきたが、僕は生返事しかできなかった。


 向こうの声も聞こえるように、僕はできるだけ真彩の持つ受話器に耳を近づけた。受話器からは無機質な機械音が聞こえる。


 繰り返し、繰り返し、何度も同じ音。


 一分近く経とうとして、僕は不安に駆られた。僕が連絡を取らない間に何かあったのではないか、と。


 しかし、全くの杞憂だった。



『はい、伊東です』


 何年かぶりに聞く父の声。低く深いその声は、より一層深みを増しているのが受話器越しでもわかった。真彩は、なんだか嬉しそうな表情をしている。


「初めまして、私、田中真彩と申します」

 普段より少し高めの柔らかい声で、真彩は自分の名を名乗った。落ち着いた、温かみのある声だ。電話の相手がこんな素敵な女性ひとだったら、僕は永遠に話し続けるだろう。


 それなのに、だ。


『……セールスはお断りだ。切ってもいいか?』


 真彩の顔がピキ、と凍る。いや、歪む? 彼女は怖がっているというより、少し怒っているように見えた。でもそれが正しい。この場合は怒って当然である。


「あの、別に商業目的の電話ではございませんので、どうか少しお時間頂けないでしょうか」


『まず手短に話してもらえないか』


「あ、じゃあ、この際はっきり言わせてもらいますね」


 え、ちょっと、真彩さん? そんな直入に突っ込むんですか?


 僕が驚いていると、真彩はニコッと僕に微笑みかけてから……。


「私、和臣さんと結婚します!」



 受話器の先から『へ?』という、あの冷徹な父からは想像できないようなマヌケ声が聞こえてきた。







 ✳︎



 とりあえず、これ以上混乱を生まないために、電話を僕に変えた。すっかり緊張は消えている。


「……というわけなんだけど」


 僕がザッとまとめて結婚までのいきさつを話すと、父はあっさりと「そうか」と認めてくれた。


『前にも言っただろ、自分のことは自分でやれって。だから結婚するもしないもお前の自由だ』


「いや、それはわかったけどさ。式には出れそうですか?」


『…………』


 長い沈黙だったが、おそらく父の心の中では既に答えなんて決まっている。その場の雰囲気に合わせて黙り込んだだけだ。その証拠に、今からあと数秒後には、淀みのない声で答えるはずだ。


『悪いが遠慮しておく』


 ほらね。


 僕は父の言葉に妙に納得して、「わかった」とあっさり話を切り上げようとした。

 しかし真彩が、僕の手から素早く受話器を取り上げた。


「あの、そういう言い方はないですよね?」


 真彩が怒っている。なぜか、僕に対しても。


「大体、和臣さんも和臣さんだよ。何が『わかった』よ? そんなあっさり引いて、それでも男か!」

「ご、ごめん」


 もうそこには、出会ったばかりの真彩の面影はどこにもなかった。しっかり前を向いて、はっきりと、自分の感情を伝えている。


 たくましい花嫁だ。


。私は、あなたたち親子の関係をほとんど知らないし、そこに介入できるほど偉い立場なわけでもないです」


 真彩は、あの人のことを「お義父さん」と呼んだ。確かに、そう呼んだ。


「だけど、和臣さんの声は私の心にちゃんと届いています」


 その言葉に、僕の心が揺らめく。

 僕にも届いているよ。君の声は、心の奥底まで響いてくるんだ。


「あなたは、和臣さんの声が聞こえていますか?」

 受話器の向こうから、未だ声は聞こえない。一体、あの人はどんな顔をしているのだろうか。


「和臣さんは、伝えようとしています。この電話だって、すごく緊張しながらも彼なりに頑張ろうとしていました」


 ……結局は真彩が電話をかけたので、その言葉に罪悪感を感じずにはいられない。同時に、僕をかばってくれる彼女を愛おしく思った。


「ちゃんと向き合って、耳をすませば、必ず聞こえますから。だから、どうか逃げないで」



“逃げないで”



 それは、僕ら親子二人に言えることだ。僕も、ちゃんと向き合わなくては。母のことも含め、聞きたいことは山ほどある。



「真彩、電話かわってもいい?」


 しかし、僕の前向きな思いは、空振りで終わる。





「ごめん。テレホンカード、使い切っちゃったみたい」









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