『海の色は何色』13
*
あれから三ヶ月が経ち、いよいよ夏を迎えようとしていた。
試写会をドタキャンしたことが、余程大きかったのだろう。担当者方からの連絡は途絶え、あんなに映画化やらなんやらで忙しかった日々は、いつの間にか消えていた。
でも、このくらいがちょうど良かったのかもしれない。
この方が物語に集中できるからだ。余計な心配も、締め切りや行事に追われることもない。
「うぉい、和ちゃん! 今日はお前が朝飯当番だろうが」
と、隣の部屋から怒号が聞こえた。
「それなら心配ないですよ、田崎さん。ちゃんと作って冷蔵庫の中に入ってますから」
すぐさま、ガサゴソと冷蔵庫を漁る音が聞こえる。そして彼は、「本当だ、完璧じゃねぇか」と感嘆の声を漏らしていた。
「わりぃな、早とちりしちまって」
「いえ、お構いなく」
僕は、田崎の住むボロアパートで一緒に暮らしていた。家事は二人で協力、家賃など金銭面に関しては僕が多めに払う、という謎の条件の
「それにしても、えらい早くに起きるなぁ。さては、未来の奥さんと密会かな?」
「何わけのわからないこと言ってるんですか。真彩とは、まだそういう関係じゃないんです」
「へぇ、『まだ』ねぇ?」
これ以上からかわれると面倒なので、「それじゃあ行ってきます」と強引に話を切り上げて玄関を出ることになった。「いいなぁいいなぁ、俺も奥さん欲しいなぁー!」という、やけに韻を踏んだ田崎の心の叫びが後ろから聞こえてきたが、構わずに出る。
____へぇ、『まだ』ねぇ?
田崎の言葉を思い出して、思わず苦笑した。
脳裏には、真彩の父に宣言をしたあの日のことが浮かんでいる。
*
「おう、田中! 今日は早かったなぁ」
田崎が、陸に上がってきたばかりの真彩の父____もとい
「田崎さんこそ、こんな時間まで何してんスか」
「えぇ? 聞きたい?」
「いや、別に」
「いやいやいやいや、ここは『聞きたい』って言うところでしょ?」
田崎は大袈裟に、「これだからコイツはぁ」というポーズを取ってみせる。しかし、当の本人である一真は田崎には一瞥もくれず、僕の方を指差した。
「俺は田崎さんより、そこの坊主のことの方が聞きたいっス」
「ああ、その子ね。うん、俺が残ってンのもこの子関係なんだけど?」
「え? どっちでも構いませんけど……」
「だぁぁぁっ!! お前、本ッ当にノリが悪いなぁ!」
「ありがとうございます」
「いや褒めてねぇし」
などと言い争ってる二人の間に入れるわけもなく、一人でしばらくの間突っ立ってるハメになった。しかし、ずっとそうしているわけにもいかない。このままじゃ、永遠と終わらない気がする。
「あ、あの」
か細い声で何とか呼びかけると、二人が「あ、忘れてた」と声を揃えて言った。我ながら可哀想な扱いを受けていると思う。
一真は頭をボリボリと掻きながら、こちらを向いた。
「あー、アンタが伊東とかいうやつか?」
驚いた。てっきり、一日の大半の時間を漁に割いている人だから、いくら僕が人気作家とはいえ、その手の話には疎いと思っていたからだ。
しかし、彼が僕のことを知っていたのには、きちんと理由があった。
「真彩のやつがここ最近、伊東さん伊東さん、ってうるさかったからなぁ」
「え、彼女、家で僕のこと話してたんですか?」
僕が聞くと、一真はぶっきらぼうに「まあな」と答えた。
「そんで、要件はなんだよ。俺は一刻も早く我が家に帰りたいんだ」
それを聞いて、安心した。何故かって、それは……。
「真彩さん、お父様のことをあまり良く思ってないようなことを言ってたから、てっきりもっと冷徹な人だと思ってましたけど、すごく家族思いなんですね」
「……小僧が、生意気なことを」
と言って、一真はそっぽを向いた。照れているのが
「どうせアレだろ、真彩を奪いにきたとかそういう
田崎同様、一真もまた鋭かった。それなら、話は早い。
「奪う、っていう表現は好きじゃないんで訂正しますが、言いたいことはまあ、そういうことです」
「何だよ、訂正って」
「真彩さんを必ず惚れさせます」
すると、田崎がニヤニヤと笑いながら、「言うときゃ言うじゃねえか」と賞賛した。
これには、さすがの一真も驚いたのか、それまで微動だにしなかった表情がピクリと動いた。
「……つまり、正規のルートで真彩と結婚するってか」
「最終的には」
そう答えてから、ああ、結婚する気あったんだ、と我ながら驚く。
しばらくの沈黙。
他の漁師たちはいつの間にか帰っていて、浜辺には僕たち三人しかいなかった。
夜のさざ波が、耳をくすぐる。
三日月が水面に映え、その回りには白銀の幻影が揺れている。それは、波打つたびに形を変え、色を変え、小さくなっては消えていく。その白銀を追いかけるようにして、波も風と共にゆっくりと去っていった。
夜の海は、黒色だ。でも、その黒は闇ではない。どこまでも深く静かに透き通っていて、表面では宝石のような光を小さく強く放っている。
今なら、僕にも海の色がわかる。
けれど、僕はそんなものを求めてはいない。
光り輝く太陽の下、
真彩。
君と一緒に見たい。
「僕はただ……真彩の隣で、一緒に海の色を探したいだけなんだ」
気づけば、そう口にしていた。田崎も一真も、目を見開いてこちらを見ている。
「おいおい和ちゃん、さっきの勢いはどうした? えぇ?」
田崎が軽口を叩いてきたが、僕はゆっくりと首を振った。
「一緒に暮らすとか、家族を作るとか、末永く幸せになるとか……そういうのは、僕にとっては結果でしかない」
うまく言葉に出来ない自分が歯がゆかった。作家なのに、情け無い。
それでも先を続ける。
「ただ、小さな幸せを見逃さないで、毎日を過ごしていくうちに、いつしかホンモノの幸せをすぐ近くに感じられるようになって……それを二人で分かち合えたのなら、どんなに素敵だろうか……って」
グダグダな説明に、二人は呆れていたかもしれない。もしかしたら、話を聞いていなかったかもしれない。僕自身も、何を言っているのか、何を言いたいのかよくわからなかった。
それでも、次の言葉はハッキリと出てきた。
「その幸せを分かち合えるのは、僕にとっては真彩なんです」
出会ってたかだか数日の女性に、僕の心はこんなにも乱され、こんなにも真っ直ぐになった。胸を熱くするような、何か大切なものを、しっかりと掴めた。忘れていた感情を、思い出させた。彼女の言葉に、傷つきながらも救われた。
どんな慰めよりも、ずっとずっと優しい真実だった。
ありがとう。
僕はまた、一から出直す。
そのために、しっかりと宣言をしにきたのだから。
「勝手にしろ」
長い長い沈黙の後、一真が一言そう告げた。
「え、いいのかよ?」
と田崎が聞く。
「だって、お前……あんなに拒否してたじゃねぇか。『そんなふざけた野郎に真彩は渡さねぇ』とか言って」
すると、一真は困ったように顔をしかめながら「こいつの思いはホンモノだと思ったんで」と返答した。
「ホンモノって何だよ」
「見せかけだけの思いじゃないなって。なんつーか、その……うーん……」
一真はおそらく口下手なのだろう。上手く言葉が出てこないのか、しばらく唸っていた。
「あれだ、こいつの真彩に対する恋愛は『恋』じゃなくて『愛』の方が強いンすよ」
数秒の沈黙。
そして田崎が「ぶほっ」と吹き出し、僕もつられて小さく吹き出した。
「ちょ……何で笑うンすか」
「だってよ、あの田中一真が……レンアイとか語ってるんだぜ?」
田崎はそれ以上言葉になっておらず、声にならない笑い声を漏らしていた。
一真は田崎のことを諦め、今度は僕に矛先を向けてくる。
「お前もだぞ、和臣!」
カズオミ。
名前で、呼ばれた……?
「あの、田中さん、今、僕のこと……」
「……」
「…………さ、帰るぞぉ」
たっぷり二人分くらいの沈黙を守りながら、勝手に話を終わらせられる。
「えぇっ……?」
僕ががっくりと肩を落としていると、田崎がポンと背中を叩いて囁いた。
「名前呼びされたってことは、認められてるってことじゃねぇか。良かったな」
*
その後は、こっそり一真の後を追って真彩の部屋まで転がっていったわけであるが。
なんにせよ、人に認められるというのは気持ちが良いものだ。
まだ真彩に、結婚とか……そもそも好きだとも伝えていない。でも、それにはきちんと理由があって。
「和臣さん!」
田崎の小屋からヒョイっと顔を出して、真彩が手を振っていた。
「今日はやけに早いね」
僕が言うと、真彩は「ちょっと良いアイデアが浮かんで……」と返した。
「真彩の言うアイデアって、いつもろくなものじゃないじゃん」
「き、今日という今日こそは、絶対和臣さんに納得してもらうんだからぁ!」
そう、僕らの今やっていることは。
「じゃあ、僕の目標を達成できそうかな?」
「もちろん! 『世間に認められる、伊東和臣の本心ぶち込んだ物語を生み出す』でしょ?」
「……『ぶち込む』って、偉い野蛮な表現するね?」
「そのくらいの勢いじゃないと、達成できないもん」
まあそうだけど。
母親へ宛てた手紙。母親に思いを伝える言葉。それが僕の物語の
他の誰でもない、ただ一人のために作ったから、世間とか評判とか、本当はどうでもいいのだけれど。
でも、それを世間にも認めてもらう。
母親への僕の思いを。
そしたら、いつの日か。
また家族三人で食卓を囲める日が来るんじゃないかって、僕は信じているから。
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