『海の色は何色』17
*
今日は真彩に会っていない。というのも、彼女は朝早くから仕事が入っているからだ。今頃、病院で訓練とやらをしているのだろう。
と、真彩のことを考えていたとき。
「物書きのお兄さん。今日さ、おじちゃんに会いに行ってみない?」
「えぇっ……? ……あっ、痛っ!!」
突然なっちゃんにそう話しかけられたせいで驚いてしまい、本の入った段ボールを自分の足の上に落としてしまった。痛い。
「物書きのお兄さんドジだね」
「ドジで悪かったね。ていうか、その『物書きのお兄さん』って呼び方やめてくれない?」
「いいじゃん別に。物書きは物書きだし」
これは簡単に変えてくれそうにない。僕もそれ以上は言い返さず、その代わり「おじちゃんに会いに行くって、どうして?」と聞いた。
「いつも駄菓子屋寄った帰りにはおじちゃんに会いに行ってるから、物書きのお兄さんも付いて来たければ来てもいいよー、ってことだけど?」
「何その仕方ないから連れてってやるみたいな言い方」
「いいから行くの? 行かないの!?」
「行きます行きます!」
ものすごい険悪でなっちゃんの顔が迫って来たので、とりあえず肯定の返事をしたが、仕事はどうしようかとすぐに悩んだ。そんなときに、ちょうど良いタイミングで店長の鶴の一声が。
「行ってきてあげて。旦那もきっと喜ぶから。仕事はもう終わりでいいわ」
「……じゃあ決まりだね」
なっちゃんがニヤリと笑う。
ここから店長の旦那さんのいる病院までは、車で20分くらいかかる。しかし今、車はない。歩いて行けなくもないが、その頃には病院の面会時間を過ぎてしまうだろう。
「なっちゃんはいつもどうやって病院に行ってるの?」と僕が聞いたが、なっちゃんはガン無視して、「それよりさ」と言った。
「お兄さん、確かバイク乗れるよね?」
おいおいおい。
「なんでそんなことまで知ってるんだよ!」
僕が聞くと、なっちゃんは「フン」と鼻息を荒くして顎をしゃくった。
「だって、そこにバイク止まってんの見たし。あれお兄さんのでしょ?」
勝ち誇ったような笑みがムカつく。が、大人な僕は聞かれた質問に丁寧に答えた。
「僕のっていうか、僕の家主さんのだけど」
「どっちだっていいよ、あれ黄色のナンバーの原付だから二人乗りできるよね?」
「だから、なんでそんなことまで知ってるんだよ!」
本日2回目のツッコミを入れながらも、なっちゃんの言いたいことは理解していたので、仕方なく予備のヘルメットを彼女に手渡した。
「わぁ、メット赤色なんだね。おっしゃれぇ〜」
「こっちの青の方が良かった?」
「ううん、赤色で満足」
僕は準備万端ななっちゃんを抱きかかえる。
「何すんのさ!」
「乗せてあげようとしてるだけ」
トス、と軽い体がバイクに乗っかる。思ったより、彼女は様になっていた。
「一人で乗れたのに」
「一人だとどうせ時間かかってたでしょ。んじゃ、しっかり捕まってて」
二人乗りのバイクは、海岸沿いの道路を颯爽と走っていった。
今日は一際、風が強かった。
*
「三〇五号室の三橋さんのお見舞いに来ました」
なっちゃんが受け付けに挨拶に行ったので、僕もその後ろを付いていった。
「はい、なっちゃんね。今日は時間内に来れたじゃない」
偉いわねぇ、と受付嬢がなっちゃんの頭を撫でる。 “ 今日は時間内に来れた ” ということは、いつもは……。
「もしかして、今日はそこのお兄さんに送ってもらったのかな?」
そう言って受付嬢が僕の方をチラリと見る。なっちゃんは僕には目を向けず、「はい、そうです」と淡々と答えた。
「それじゃあ、帰りも安心ね。いつも通り見てきてあげてちょうだい」
「はい、ありがとうございます」
そう言って、なっちゃんはエレベーターのボタンを押した。
「もしかしてさ、毎日歩いてここまで来てたの?」
僕が聞いたがなっちゃんは何も喋らない。
「偉いじゃん」
僕がさっきの受付嬢の真似をしてなっちゃんの頭を撫でると、彼女は「べーつに」と言ってそっぽを向いた。だけど、僕の手を退けることはしなかった。
エレベーターのドアが開く。
中の鏡の自分と目が合った。なんだか情けない顔つきだ。
「何ボーッとしてんの? 面会時間過ぎちゃうよ? 早く行こう」
なっちゃんに腕を引っ張られながら、僕はエレベーター内に入る。
ウィィィと機械音が鳴り、足下から重力が押し寄せてきた。
2階で一瞬小窓が見えたが、エレベーターはそのままスルーして上へと向かう。
次の小窓が見えたと同時に、『3階です』とアナウンスが流れた。
ドアが開く。
白い壁に囲まれた廊下は、先程いたロビーとは違う世界にいるかのように錯覚させた。僕は何故か体が固まってしまった。
「物書きのお兄さん、大丈夫? もしかして病院苦手?」
なっちゃんが心配そうにこちらを覗き込んでいたので、僕は慌てて首を振った。
「そんなことないよ。ただ、あんまり行ったことなかったから」
「そ。なら行くよ」
なっちゃんはそっけない態度を取りながらも、安心したような表情だった。
廊下を一歩一歩、歩いて行く。
三〇一号室、三〇二号室、三〇三号室……。
三〇五号室。
『三橋さま』と書かれた名札が貼られている。
なっちゃんがコンコン、とノックして「おじちゃん、入るよ」と声をかけた。
スライドドアを開けた先にまず見えたのが、純白のカーテンだった。
その次にテーブルの上の花瓶。
色とりどりの千羽鶴の付いた
「おじちゃん、今日はね物書きのお兄さん連れてきたよ」
奥に足を踏み入れると、 “ おじちゃん ” はそこにいた。
いくつものチューブを体に繋がれて、その人はベッドの上で宙を見つめていた。
目は開いていたが、その目には何も映っていなかった。目だけじゃない。耳も、鼻も、五感全てが。
なっちゃんの声も、顔も、匂いも、手の温もりも、何も彼は感じていなかった。感じていないことを、僕ははっきりと感じた。
どうしようもない虚無感。
なっちゃんの乾いた声が、笑顔が、辛かった。
生きている。
確かに呼吸をしている。心臓も動いている。
それなのに、彼はここにいない。
じゃあどこに?
彼の魂はどこにあるのだろう?
わからなかった。
初めて会った人なのに、こんなにも彼のことが愛おしいと感じた。彼と話したいと思った。彼を知りたいと思った。彼の声を聞きたいと思った。彼の瞳に映りたいと思った。
生きて戻ってほしいと思った。
店長に元気な姿で会ってほしいと思った。
「なっちゃん」
僕は花瓶の花を移し替えている彼女を呼んだ。彼女は返事をしなかった。
「僕は、どうすればいい?」
僕は小学生に何を聞いているんだろう。
だけど聞かずにはいられなかった。そうやって小分けにして言葉を発さないと、僕の中にある得体の知れない何かが、溢れ出て止まらなくなりそうだった。
「そんなの……私が知りたいよ…………」
「……だよな」
彼女の重荷を分けて背負えれば、と思った。だけど、僕には無理だ。
もう彼女からの返事はないと思い、彼女に背を向けた瞬間、僕の背中に小さな
「知らないけどさぁ……でも、おじちゃんは私が泣いてたらきっと悲しむからさぁ……私は笑ってなきゃいけないんだよ」
すぐ背後から聞こえる震えた声が痛い。その悲しみは、耳の芯まで響いてくる。
「だからさぁ、お兄さんは書いてよ。ずっと、おじちゃんが元気になるまで、書いてよ、本を」
____書いてよ。
なっちゃんの言葉には力があった。
だからだろうか。
“ おじちゃん ” が、なっちゃんの声に反応していたように感じたのは。
そんなのただの妄想に過ぎないと人は笑うだろう。でも僕は確かにそう感じたのだ。
僕はなっちゃんの方を向く。なっちゃんは俯いたままだ。だが、構わない。この距離ならきちんと声は届く。
彼女に、もう一つだけ聞いた。
「なっちゃんは、僕の、どの作品が好き?」
彼女は即答した。
「『ライオンの空』。それしか読んだことないから、それ以外はわからないけど」
僕の作品のいくつかに児童書のものもある。しかし、『ライオンの空』は児童書ではない。それなのに、彼女はそれを読んでいた。
「なんで『ライオンの空』だけ読んだの?」
僕が聞くと、彼女は俯くのをやめてこちらを向いた。そして、涙で濡れた顔をくしゃっとさせて笑った。
「おじちゃんの大好きな本だったから」
限界だった。
涙が次から次へとこぼれ出した。
自分の作品を好きだと言ってくれた彼に、僕は心から感謝した。
ありがとうございます、と。
そしてこれからも読んでほしいと願った。強く願った。
___書いてよ。
あの言葉に彼が反応したのは、きっと彼にもその思いがあったから。僕に書いてほしいと、きっと願っていたから。
自惚れかもしれない。でも、それでいい。僕は書きたい。僕が、それで誰かを救えるのなら。
僕は書き続けます。
きっかけは母への手紙。
母へのメッセージ。
だけど、今はもう違う。
母だけじゃない。
僕の作品を好きだと言ってくれるすべての人のために。僕の作品を待っていてくれるすべての人のために。
真彩のために。
僕は書き続けます。
*
「ありがとう」
誰にというわけではないが、言わずにはいられなかったので、感謝を述べた。すると、なっちゃんも「ありがとう」と返した。彼女も僕と同じ意味合いの感謝だろう。
「それじゃあ、帰ろうか」
「そうだね。そろそろ面会時間も終わりだし」
「家どこらへん? 送ってくよ」
「当たり前。そのつもりでバイクで来てもらったんだから」
「うわぁ、嫌らしい小学生」
クスクスと二人で笑う。
彼女の小さなその背中には、重荷の代わりに希望が乗っていたのだった。
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