『海の色は何色』24


 *


“孫の花嫁姿を見る約束”


 覚えている。今でもはっきりと。


 あれは、私が小学校に入学する前だった。その頃、一番の親友だった子のお姉さんが結婚するとかで、私も式に呼ばれたのだ。


 そのとき、お姉さんの真っ白なドレスがすごく綺麗で、華やかで、私は目を輝かせていた。


 その日、家に帰ってすぐ、家族に「わたし、けっこんする!」と宣言をしたのだ。父は「おい、真彩、気を確かに……」と偉く動揺していて、母は「あらあら、いいじゃない」と嬉しそうにしてくれて、そして祖父は「真彩の花嫁姿、見てみたいなぁ」とニコニコと笑っていた。


 私はその頃、祖父が大好きで、彼の言うことたら何だって聞いていた。嫌いなニンジンも、祖父に食べなさいと言われたら我慢して食べていた。


 だから、祖父のお願いも叶えてあげようと思ったのだ。


「じゃあ、わたし、ぜったい、きれいなはなよめさんになるから、おじいちゃんみにきてね! ゆびきりげんまんだよ!」


 私が小指を突き出すと、祖父は快く指を絡めてくれた。


「じいちゃんは、きっといつか色んなことを忘れちゃうが、この約束は絶対に忘れないよ」

「なんでわすれちゃうの?」

「じいちゃんの母さんも、他の家族も、みんな最後は何もわからなくなって逝っちまった。だから、じいちゃんもその遺伝があるかもしれん」

「ふぅん」


 このとき、私は「いっちまう」が「っちまう」とはわからなかったし、遺伝というものが何かもわからなかった。わからなくなることがどういうことかも、わからなかった。


 だから、祖父が認知症だと知った時はつらくてどうしようもなかった。



 あの約束。

 ちゃんと覚えてくれていたのか。



 不意に涙がこみ上げてきた。喉の奥の方がキュウ、と詰まる。苦しい。だけど、辛くはない。


 胸に手を当てる。




 辛くないよ。


 だって、おじいちゃんは、ちゃんとここにいる。






 *



「和臣さん、私と……」


 私と結婚してください。


 そう言おうとしたが、言えなかった。


 彼が、私の口を手で塞いだからだ。


「はい、ストップ、ストップ。君は、告白だけでなく、プロポーズまで独り占めしようとしているのかな? ここは、男に花を持たせてくれよ」


 そう言われて、私は慌てて口をつぐむ。


 公園の中央では、小さい子たちがドッジボールをして遊んでいた。



「今の僕には、君にあげる指輪もない。ちゃんとした職もない。家もない。おまけに、お金もない」


 うん、と私は頷く。だって、全部本当のことだから。


「だけど、強い思いだけは、人一倍あるよ」


「……それ自分で言っちゃう?」


 私が指摘すると、「ちょっと、良い雰囲気作ろうとしてるのに台無しじゃないか」と和臣さんが困った顔をした。


「だけど、私たちに良い雰囲気なんて似合わないよ」


 私はゆっくりと話し始めた。


「面白くて、前途多難で、だけど二人で乗り越える。真っ白な画用紙に、二人で一緒に色をのせるように。私たちの描いた後に、新たな道ができるように。固定観念に流されない。自由に生きるの。それで、いいじゃない」



 だって、既に決まっている道を歩くほど、つまらないことはない。



「まあ、そうか」

 和臣さんは優しく微笑んだ。



「じゃあ僕らしく、プロポーズさせてもらうよ」

「うん」



 そこでボールが一つ、コロコロと転がってきた。


「わ、ごめんなさーい!」

 女の子が走って駆け寄ってくる。他の子達も女の子に続いて駆け寄ってきた。


「あの、今、プロポーズがどうとか話してましたよね?」

 女の子が私たちの顔を伺いながら聞いてきた。


「えっ、き、聞いてたの?」

 和臣さんが顔を赤面させると、子供たちは「ヒュー!」と口笛を鳴らした。……絶対この子たち、わざとボールを転がしたな。プロポーズを聞くために。


「ねえ、プロポーズ続けて! わたしたち、ここで聞いてるから」


「ちょっと待って。君たちにはプライバシーとか、デリカシーとか、そういうものがないの?」


「うーん。そんなむずかしい言葉、わたしたちには理解できないなぁ。プロポーズしか、わからないなぁ」


「いいから、早くドッジボールの続きやりにいきなよ」

「ううん、今みんなドッジよりプロポーズの方が見たいよね?」

 女の子が聞くと、子供たちはみんな声を揃えて「見たい!!」と言った。


「プロポーズ終わるまでここをどきませんから」


 和臣さんは、ついに言葉を失う。私はというと、必死に堪えていた笑いがついに漏れてしまった。


「この子達、プロポーズを見たいんだってさ。野次馬付きなんて、和臣さんらしいプロポーズじゃない」

「うう、なんかさっきから全く締まらないなぁ」


「ねぇねぇ、お兄さん早くしてよー」

「男を見せろー!」


「ったく、マセガキ共め!」

 和臣さんはチッと舌打ちをしたが、気を取り直して私の方を向いた。



「格好良くプロポーズもできないわ、女に助けられるわ……ちっとも男気がないこんな僕だけど」


 子供たちは息を止めるほど、真剣に私たちを見ていた。






「結婚してください」






 絡み合う視線は、どこまでも温かくて優しい。

 私の唇は、少し震えていた。




 胸の中から溢れ出すこの感情の名前は、何というのだろう。




 まだまだ、私には知らないことばかり。小さな世界で懸命に生きてきた私だから、わからないことも多いし、きっと失敗だってする。道を間違えることもあるだろう。


 それでも、これだけは間違えない。


 たった一言。たった二文字。

 けれど、その二文字は一生モノだ。





「……はい」





 その瞬間、ワァァっと歓声が起きた。女の子たちは、目に涙を浮かべながらキャーキャーと騒いでいる。


「お兄さん、今すっごーく格好良かった!!」

「おめでとう、お姉さん良かったね!」

「二人ともお幸せにー!!」

「結婚式呼んでくれよ」


 子供達は相変わらずひやかし口調だったが、先程のひやかしとは違い、ただ私たちの幸せを祝福してくれる思いだった。私はまた、胸の中が熱くなる。


「真彩」

 名前を呼ばれて顔を上げた途端、唇を塞がれる。


 いい気になった和臣さんは、子供たちの前で私にキスをしたのだ。それも、何度も。


「ひゃぁぁぁぁ!!」


 子供たちは、みんな顔を真っ赤にしてその場を離れた。


 和臣さんはその子達の背中に向かってアッカンベーをする。

「ふん。子供が調子乗るんじゃねーよ! 僕だって男だっつーの」


「和臣さん、言葉遣い荒いよ」

「許せ。今だけだ」


 子供に対してムキになるという、いつもとは少し違う和臣さんを見ながら、私はいつまでも幸せを噛み締めていたのだった。










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