『海の色は何色』4



「あの人といると、本当に調子狂う!」


 帰宅そうそう、私は自室で声を上げていた。




 だって、出会ってから二日目で下の名前で呼ぶ!? しかも、『可愛い』とか言っちゃうものなの!? 私、男子と喋ったことなんて人生で一度もないのに!


 ツッコミどころは満載だった。なんだか、思ったよりも積極的な男性だったから驚いた。ハッキリ言うと、私は彼のことをあまり好きになれない(彼の作品は好きだけれど)。


 しかし、心のどこかで彼を認めている自分がいる。



 彼は良い人だと。

 彼ともっと仲良くなりたいと。



 帰り際に、彼は「また明日ね」と言ってくれた。その言葉にホッとする自分がいたことは不本意だ。そう、絶対に……。




 *


 という話を母にすると、「不治の病ね」と言われた。つまりは……。


「ついに真彩も恋したのねぇ! お赤飯でも炊こうかしら」

「だから、そんなんじゃないってば!」


 もう二、三回くらいはした、このやり取り。いつもは優しくて大好きな母だけど、今回ばかりは鬱陶うっとうしかった。


「そういう、お母さんは、どうなの? 漁師の人と、結婚なんて、将来的にも、あまり、良い判断とは、思えないんだけど」


 すると、母は「だから、それが恋なのよぉ」と嬉しそうに笑った。


「お金のこととか、将来のこと、世間体のこと……生きていく上で、必ず大切になってくるものがあるでしょう? でも、『そういうのは気にしない』『気にしてる余裕がないくらいに愛しい』『他の何にも変えられない』って気持ち。それが恋なの」


 母は頬杖をつきながら、うっとりとした口調でそう語った。


 正直、聞いているこっちが恥ずかしかった。それに第一、まだ私は伊東さんのこと何とも思ってないし!


 それでも、私は聞かずにはいられなかった。


「お母さんは、お父さんの、どんなところが、好きになったの?」

「んー、そうね……」


 母は、台所に飾ってある写真立てに目を移した。そこには、父と母の結婚式の写真が飾ってある。お金が無かったから、あまり盛大には祝えなかったらしいが、写真の中の二人は幸せそうな笑顔でこちらを向いていた。


「私たちの場合は、親同士の繋がりで知り合って、成り行きで交際を始めたから、初めはお互い好きでも何でもなかったのよ」


 その話はなんとなくだが、聞いたことがある。簡単に言えば「政略結婚」とか言うやつだ。母が網元の娘で、父一家はそこの網子だったので、当たり前の成り行きといえばそうなのだが、やはり最初はお互い嫌々の結婚だったという。


「だけどね、一緒に過ごしているうちに、あの人の色んな側面が見えてくるの。一度、その人の長所に気づくと、次々と長所ばかり目につくようになるのよねぇ」


 人って案外単純なのかもね。母は深い言葉を残してから、「あ、ドラマ始まっちゃう」と言って、急いでテレビの前に駆けつけていった。


「もう……」

 いつも、言いたいことだけ言って、そのあとは自分のことに夢中になっちゃうんだから。


 そこで、ふと思った。お父さんは、お母さんのどこが好きなんだろうか、と。そもそも、お母さんのことを愛しているのだろうか。



 わからない。

 あの人は、冷たい人だから。



 それでも、私にとっては一人の大切な父親だから、毎朝早起きして今日も大丈夫かと確認してしまうのだ。


「……バカみたい」

 自嘲気味に笑ってから、私は自室に戻った。





 *



 部屋一面に広がる本棚の中は、もちろん小説だけではない。漫画や雑誌、絵本などジャンルは様々だ。


 私はなんとなく、漫画を保管している棚の方を見た。


 私が生まれる前のものから、今なお連載している作品まで幅広い年代で揃っている。



 有名どころで言えば、少年漫画なら、『タッチ』『るろうに剣心』『きまぐれオレンジロード』『うる星やつら』『幽☆遊☆白書』……。


 少女漫画なら、『ベルサイユのばら』『はいからさんが通る』『あさきゆめみし』『ママレードボーイ』『王家の紋章』『ガラスの仮面』『エースをねらえ』……。





 その中でも、1番お気に入りの『タッチ』を手に取ってみた。



 ページの中で青春を謳歌する彼らは、永遠に高校生のままだ。私が小学生の時からずっと読み続けていた作品。


 あの頃は、自分が高校生になっている姿なんて想像できなかったし、高校生なんてものすごく大人のような気がしていた。私も浅倉南チャンみたいになるんだ、なんて浮かれていた気もする。



 だけど、今はどうだ?



 高校生活なんてあっという間だった。気づいたら卒業していた。それからは、何の変哲もない役所仕事。自閉症の私でも受け入れてくれるところがここしかなかったから、他に選択肢などあるはずもなかったのだ。


 ページの中の彼らは変わらない。ページの色は褪せていても、彼らの物語は褪せることなくいつまでも輝いている。


 だけど、生身の人間の私たちは常に変わる。『無常』とか『生々流転』いうやつだ。


 空はヒトが誕生する前から青いけど、人間はより良い暮らしをするためにどんどんと進化をしていく。


 地球は、太陽の周りを何億年も前から回っているけど、地球の表面は良くも悪くも変わっていく。




 私たちも、それと同じ。




 だけど、頭ではわかっていても、心ではわからないのだ。


 なんで人は、変わってしまうのか。変わらなくてはならないのか。






『タッチ』を元の場所に戻しながら、ふと、伊東さんの小説の方に目をやった。



 昨日、彼の本を改めて読んで、私は実感した。



 彼もまた変わっているのだ、と。



 でも、変わって欲しくなかった。彼は、おそらく悪い方へと変わってしまった。私の好きな、『ライオンの空』の面影は今の彼の作品には、どこにもない。



 昨日からずっと、そのことを彼に言おうかどうか迷っていた。


 それは、恋愛感情のような安い気持ちからではない。一読者として、彼に伝えたいことがたくさんあったからだ。



 どうして私はこんなにもあの人にこだわるのだろう。優しくしてもらったから? 話しかけてくれたから? 私のことを一人の女性として見てくれたから?



 多分、どれでもない。



 すっかりボロボロになってしまった『ライオンの空』に小さな雫が滴り落ちた。




「ああ、そうか」







 ……私は、変わってしまったことが、悲しいんだ。











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