『海の色は何色』11
*
ダメだ。理性を保て、和臣。
頭の中で、本能と理性が戦っていた。だって、仕方ない。こんな状況を作り出した、彼女が悪いのだから。僕としては、廊下にいた方が良かったのに。惚れた女の子と部屋に二人っきりって、どんな仕打ちだよ!
落ち着け、これは修行だ。きっと試されてるんだ。だから、負けるな。決して負けるな。
……と、僕が脳内でアレコレ悩んでいると「和臣さん」と呼ばれた。名前で呼ばれるのは、いささか気持ちが良かった。本当はそんなことを言っていられるほど悠長ではないのだが。それでも嬉しいものはやっぱり嬉しい。
真彩に呼ばれた方を見ると、ちゃぶ台の上にお茶が置かれている。どうやら、いつのまにか真彩が用意してくれていたらしい。
「ここ、座っていいですよ」
そう言って、真彩は座布団を進めた。ずっと突っ立ているわけにもいかないので、「サンキュー」と一声かけてから座っておく。
小さなちゃぶ台を挟んで、彼女と向かい合う形になった。
いきなり本題に入るのは気が向かないので、何か話題はないかと辺りを見渡した。
やはり、壁一面の本棚が一番インパクトがある。これだけの量の本をすべて読んだのだろうか。まるで、本屋さんに来たかのような錯覚に襲われるほど、びっしりと詰まっている。
「本、すごいね」
思ったままのことを伝えた。
「あ、はい」
真彩はそう相槌を打つと、お茶をグビっと飲んだ。
「ほら、私、障害があるでしょう? クラスメイトとかが、それをからかってよくいじめてきたんです。それで、学校に行く足もだんだん遠のいて、気がついたら不登校になってた」
「……そう、だったんだ」
当時の彼女の苦しみを思い浮かべていると、彼女は「だって、そうでしょう?」と苦笑いを浮かべた。
「子供って、すぐに自分と違う子がいたら、いじめの対象にしたがるじゃないですか。大人だって、気味悪がって近づかないようにするし」
「でも僕は、真彩さんのことをそういう風には思いません」
熱っぽく僕が言葉を放つと、彼女は照れたような笑みを浮かべて、「ありがとうございます」と言った。
「まあ、話を戻しますけど、それで両親が引きこもりがちだった私に、本を買ってくれたんです」
「なるほどね」
「最初に買ってもらった本、何だったと思います?」
急な問いで虚を突かれた僕は、「え?」と声を出すので精一杯だった。
すると、彼女は自分から問いかけてきたのにも関わらず、「太宰治の『人間失格』です」と答えた。
「……そ、それはまた、何とも言えないチョイスだね」
「ほんとですよね。しかも、不登校の小学生に、ですよ? 余計に嫌になるじゃないですか」
でも、と言葉を一旦区切ってから彼女は続けた。
「両親なりに考えて選んでくれたんだな、って思ったら読まないのは失礼だなって……それで、ほとんど理解できなかったけど、なんとか読破したんです」
ちなみに後で彼女の両親に聞いたところ、それは友人が家に置き忘れた本だったらしい。とりあえず、間に合わせで用意しただけだから、とくに考えて選んだわけではないとのことだった。「まあ、漁師やってるような夫婦に文才があるようには見えないですしね」と彼女は笑っている。
「でも、その一冊を機に、読書が好きになって……気がつけば、こんなに多くの本に囲まれていました。……私は幸せ者です」
幸せ、ねぇ……。
僕は心の中でそう呟いてみる。
本に囲まれることが幸せなのだとしたら、その本を生み出している僕らは、果たして幸せなのだろうか?
すると、その心境を見極めたかのような真彩の言葉がきた。
「でも、もっと幸せなのは、きっと物語を書いている人たち」
彼女は僕の顔を正面から見つめてきた。目を逸らしてはいけない、そんな気迫が感じられる鋭い目つきで。
「今朝はごめんなさい。知ったかぶりのようなことを言って。私は、何もわかってなかったんです」
彼女は苦しそうに言った。どうして、君がそんな顔をするんだ。悪いのは……。
「私です。私が、悪いんです」
彼女の瞬きの回数が増える。きっと涙を必死に堪えているのだろうが、側から見れば丸わかりだ。それでも、彼女は頑なに目を逸らそうとしなかった。
「和臣さんは、自分の書きたいことを書いても世間には認められないこと、それでは生きていけないことを知っていて……それをずっと耐えてきてた。それなのに、私は無神経なことを言いました」
そこまではっきりと言われると少々苛立ちも覚えてしまうが、本当のことなので仕方ない。
「でも、このままでいいとは思いません。だから、一緒に戦います。和臣さんの、本当の思い。絶対の絶対に、世間に認めてもらいます」
ああ。彼女は、真っ正面から立ち向かう気だ。自分が傷つくのも恐れずに、ただ、僕と僕の本のために。
「……だから、これ以上一人で苦しまないでください」
彼女は泣き笑いのような顔で、そう強く語りかけた。
(かっこよすぎだ、バカ)
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