『海の色は何色』33
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潮風が窓から吹き込んできた。眉にかかるくらいの長さの前髪が、小さくゆったりと揺れる。
『君の青、僕の赤』がいよいよ完成する。あと、エピローグを推敲すれば完成だ。結婚、古本屋の引き継ぎ、出産、体外受精など、立て続けに様々なことが起こり、完成が予定より大幅に遅れてしまった。
出来は、今までの どの作品よりもずっと良い。作者である自分が言うのもおかしいかもしれないが、自信を持ってオススメできる物語だ。
『ライオンの空』と決定的に違うのは、現実で起きた話をベースに話を創り上げたということ。ノンフィクションほど、リアリティーがあり、深みがあり、面白い話はない。そこに、僕の想像力をプラスすれば、僕の思いを、感謝を伝えられる。そう思った。
おそらく、これが僕の最後の作品だろう。
書き続ける、と店長たちに誓った。母さんに読んでもらいたいと強く願った。でも、それは世に出すためではなく、あくまでも自分の思いを綴るため。そして、単純に「物語を創る」ことが自分のやりたいことだからだ。もう何度も語ったことだが、売上を目的にしているわけではない。
世界には、まだ「自由」を許されていない地域がたくさんある。
そんな中、僕は日本という国に生まれ、物語を自由に書ける環境の中で生きているのだ。
その「自由」を「売り上げ」のためだけに、制限させるかっての。
それに、自由に生きられない人たちにそんなのは失礼だ。
……などと考えながら本文を読み返していると、ふと違和感を覚えた。なんというか、最後の文が、あまり歯切れが良くないのだ。
なにか良い締めはないか。
そこで、自分の中でパッと思い浮かんだ言葉を、僕は万年筆の先に託した。
“だから僕はこれからも、「自由」に書き続けます。” と________。
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体外受精も順調に進んでいるらしい。先ほど定期連絡が入った。
あれから真彩は、人工妊娠中絶をして、今は専業主婦として元気に過ごしている。
だいぶ元通りの様子になってきたが、やはり命を断ったという傷は中々癒えず、夜寝る前なんかに時々泣いているのを見かけた。
失った者は、もう戻らない。
それは、店長夫婦の死を通して僕が思い知った事実だ。
でも、だからといって悲観的になるのは間違い。失ったものばかりを数えていたって何も始まらない。
前を向いて生きていく。それが、残された者の使命だ。
たとえ死後の世界がなく、去って行った彼らが「無」になったとしても、生きている僕らに出来ることは、ただひたすらに前を向いて生きることだけなのだから。
そうそう、なっちゃんは高校生になった。元々、小さい頃から美人だなと思っていたが、さらに美しさを増したと思う。でもそれは外見というよりは、中身のこと。店長たちが亡くなった直後の顔とは見違えるほど、たくましくなった。
この様子なら、きっと大丈夫。
彼女はしっかり前を見据えている、芯の強い子だ。
もう一度、ざっと原稿に目を通してから、僕はそれを封筒に入れた。
明日、僕が働いている出版社に持ち込み作品として書籍化できないか検討してもらう。まだ文庫担当の編集長には話をつけていないが、まあなんとかなるだろう。
僕はその原稿を無くさないように、机の引き出しの奥にしまいこんだ。
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「完成したよ」
僕はキッチンにいる真彩向かって、そう声をかけた。
すると、冷蔵庫から牛乳を取り出した真彩の手がピタリと固まる。
「やっと……できたんだね……」
「いやぁ、その……遅くなって申し訳ないって感じなんだけど……」
「おめでとう!! そして、お疲れ様!」
真彩がものすごく嬉しそうに笑う。つられて、僕も笑顔になった。
「なんというか、喜んでくれてありがとう。でも、僕だけの作品じゃないから、真彩にも『おめでとう、お疲れ様』だね」
「それもそうね。お互いおめでとう!」
その傍らで、四歳になった巧海も、首を傾げながら「おめでとう!」と連呼していた。今は年少さんとして幼稚園に通っている巧海。『ひよこぐみ』カラーである黄色い帽子を被って、ニコニコ笑っている。
真彩は時計を見てから、巧海の手を取った。
「じゃあ、巧海はそろそろ幼稚園行こっか」
「はーい!」
元気良く挨拶した巧海は、僕の方をチラッと見た。
「おとーさんも、きょうはいっしょにいこうよ!!」
真彩好きな巧海が珍しく僕を誘ってきた。これは一体、どういう風の吹き回しか。
「なんで今日はお父さんのことも誘ってくれるの?」
「だって、おとーさんもおかーさんも、きょうは『おめでとうの日』だもんね! 楽しそうな音が聞こえるもん」
おめでとうの日。
なんだか、良い響きだ。
仕事は午後からだし、時間には余裕がある。僕は巧海たちと一緒に幼稚園に向かうことにした。
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幼稚園までは、巧海と一緒に歩くと20分くらい。ちなみに、大人の足なら10分程度だ。
動きを拘束されるベビーカーは巧海はどうやら嫌いらしく、早い段階でベビーカーから降り始めた。今は、元気に走り回っている。
「ほら、車さんいっぱいだから、気をつけて!」
「だいじょうぶだってー! おれつよいから!」
「強いからって……」と苦笑いするが、内心ヒヤヒヤしてしまう。
途中、仲の良い友達と合流して、巧海は一層楽しそうにしていた。家にいるときよりも口数が多いし、いかにも『元気ハツラツ!』という感じだ。
知らないところで、子供は成長しているんだ。
僕は妙に感傷的になっていた。
だんだん園児たちの数が増えてくる。次の曲がり角を曲がれば、すぐ幼稚園だ。
ちなみに真彩はというと、巧海の親友くんの親御さんと仲良く話している。ママ友とかいうやつか。
ちょっと除け者にされた感じになった僕は、一人寂しく歩く。そんな僕に気づいたのか、いよいよ幼稚園に着くというときに、巧海が全身で前進アタックをしてきた。
「おいおい、急にどうしたんだよ」
「ねぇ、おとーさん」
先ほどまでの明るい声とは違い、震えた声が聞こえたので僕は慌てて巧海の顔を見た。
「ど、どうしたの?」
「なんだか、あぶないおとが、する」
「危ない音って?」
巧海は言うのをためらってか、口を開いたり閉じたりする。
「大丈夫。お父さんになんでも言って見て」
それでも、まだ渋っていた巧海だが、やがて根負けして話し始めた。
「おとーさんと、おかーさんから、ガシャーンっておっきなおとと、キャーってこえが、きこえるんだ」
つまりは、衝突音と叫び声。
まさか、とは思った。まさか、巧海が予知能力まで持っているなんて、と。
だけど、こんなにも怖がっているのが嘘をついているようには見えない。
とりあえず僕は巧海を安心させるために、彼の肩をガシリと掴んだ。
「巧海。お父さんもお母さんも、大丈夫だよ。巧海を一人にさせたりなんてしない」
「うん……」
まだ顔が晴れない巧海に、僕は笑って答えた。
「心配するなよ。僕と巧海は、いつもレンジャーの修行してるんだから、最強だ! だから大丈夫。なっ?」
すると、巧海もまた先ほどの笑顔に戻り、元気に幼稚園に向かったのだった。
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「……というわけで、事故には くれぐれも気をつけよう」
僕が先ほどの巧海とのやり取りについて説明すると、真彩は不審がった顔をしながらも頷いた。
「もし、それが本当だとして」
うん、と僕は相槌を打つ。
「そしたら、二人で同時に事故に合う確率が高いわよね?」
「本当なら、だけど」
「それって、もしかして、この帰り道じゃない?」
そう言われて初めて実感が湧き、ヒヤリとした。
いや、事故なんて起こるわけない。ありえない。ましてや、それを巧海が予言?
だけど、昔から巧海は万物の音を聞ける超能力らしきものを持っているらしいし……。
色々、頭の中で考えを巡らせたが、結局言葉にしたのは、ごく普通のものであった。
「ま、まさか本当にあるわけないよ……」
真彩もうん、と頷く。
「だけど、せっかく巧海が教えてくれたのよ? もしかしたら、事故を未然に防ぐために、神様が巧海にお告げをしてくれたのかも。とにかく、無駄にしちゃいけない気がする」
「で、でも、事故なんて、防ごうと思っても防げるものじゃないよな」
「可能性を下げることはできる。できるだけ、車通りの少ない道を通るとか」
そんなわけで、僕らは少し遠回りになるが、車通りがあまり多くない道を使って帰ることにした。
そのときだった。
数メートル先で、車がパーキングの看板に激突したのは。
ものすごい衝撃音に、思わず耳を塞ぐ。
周りに何人か人がいて、叫び声を挙げている。
そして、その叫び声の中から「手伝ってくれー!」という声が聞こえた。
僕と真彩は、急いで車の元に駆けつけた。
「あの、なにかお手伝いします!」
「ああ、すみません。運転手さんが、出られないみたいなんだ。一緒に引っ張り出してくれないか」
「わかりました。僕と妻で良ければ」
と自分で答えてから、あることに気がついた。
「あの、周りの人たち、誰も手伝ってくれないんですか?」
声を抑えて聞くと、先ほど助けを求めた人も眉間にシワを寄せてヒソヒソと話した。
「それが、皆さん怖がってしまって……」
「ああ、そうですか」
それ以上はお互い何も追及せず、とりあえず運転手さんを助けることにした。
そして、不謹慎だが、内心で良かったと思った。
というのも、巧海の予言はおそらくこの事故のことを指していたからだ。だから、僕と真彩に事故が起きることはない。
「じゃあ、僕と妻は上半身を抱えますから、あなたは下半身を……」
頭上からメキメキメキという音がして、黒い影が僕らを覆う。
頭上を見ると、パーキングの看板がすぐ目の前にあった。
それが、最期だった。
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