【前日譚】

『海の色は何色』1


 

 彼女と出会ったのは、3月の砂浜だった。




 *


 穏やかな春の兆しが見えて、暖かな日光が僕と彼女を照らしていた、春の海。


 ……とはいうものの、3月の海辺なんてまだ寒さが残っており、人気ひとけもあまりない。


 僕は、朝の散歩がてら海辺を歩いていた。


 朝の潮の匂いは、どこか新しい。

 その空気をいっぱい吸って、気持ちよく歩いていたときだった。



 そこに、彼女はいた。



 その小さな丸まった背中は微動だにせず、ただただ海だけを見つめていて、どこか人形めいた雰囲気を彷彿させている。しかし、一際強い波風が吹いた途端、彼女はブルブルっと小刻みに震えた。……よかった、ちゃんと生きてる。


 それにしても、一体なぜ、寒い思いをしてまでここにいるのだろうか。


 正直、声をかけるかどうかは迷った。……もし彼女が絶世の美女だったりしたら喜んで駆けつけたかもしれない。しかし、はっきり言ってしまえば彼女は地味系だ。服装や立ち居振る舞い、化粧の出来栄えなどからわかる。あいにく、僕のタイプの女の子はもっとオシャレで、元気で、可愛くて、ポジティブなかんじの子だ。つまり彼女は、残念ながら僕の的外れ。


 しかし、女性を放っておけないタチなのも事実。


 結局お人好しの僕は、その人の元に駆けて行った。


「あの、寒くないですか?」


 はじめ、彼女は自分に話しかけられていると気づかなかったのか、知らんぷりをしていた。だけど、僕が彼女の右肩をトントンと叩いてあげると、彼女はビクっと震えてから、一瞬だけ目を合わせて……すぐに俯いてしまった。しかし、その一瞬で僕は彼女の顔をしっかり把握できていた。


 思っていたよりも、パーツが整っていて可愛い。すっぴんでそこそこ可愛いなら、メイクをちゃんとすれば美人になりそうだ。


 ……おっと、いけない。彼女が寒い思いをしたら良くないと思って声をかけにきたんだった。このままじゃ、ナンパだと思われかねない。


 僕はもう一度「寒くないですか?」と聞いてみた。


 すると、彼女は未だ俯きながらも、ゆっくりと口を開いた。




「だい、じょう、ぶ、です。……わた、し、いつも、ここ、に、来て、る、から……慣れ、て、ます」




 あまりにも小さく消え入りそうな声で、明確には聞き取れなかったが、彼女の言葉がたどたどしいことは伝わってきた。


 もしかして、難聴の子かな?


 ……とは思ったが、初対面でそんなデリケートな質問は出来ないので、そこは流しておく。


 その代わりと言ってはなんだけど、僕は彼女にゆっくりはっきりと話しかけてみた。


「僕のコートを、貸してあげますので、良かったら使ってください」


 すると、彼女はピタリと一時停止して……慌てて首を横に振った。


「そ、そした、ら、あなた、が、寒く、なっちゃう、じゃ、ない、です、か」


 しかし僕もここは引かない。


「あなたに、風邪を引かれたら、僕が困るんです」


 少々強引でくさいセリフだが、これを言われて下がらない女性はいないはず……。


 と思いきや。

「なん、で、困る、ん、です、か?」

 ……おっと、ソコんとこ突っ込んでく派なのか君は。


 そういう細かいところを気にする辺りがまた真面目だなぁ、とちょっとズレたところに感心してしまった。


 さて、理由を聞かれた。どうしようか。きちんと熟考してから説明をしたいところだが、ここで不自然に間が空くのはあまりよろしくないだろう。そう思って、僕は「んーと……」と適当に繕った。


「僕は、作家をやっています。今日は、次の小説の題材を決めるために、この海岸に、来ていたんです」


 本当は、「僕の前作の映画化が決まって、その映画監督さんに挨拶しにいくがてら観光をしにきたんです」……が正しい回答なのだが。


 しかし、彼女は僕の適当な嘘に疑いもせず「作家、って、す、ごい」と感心している様子だった。ちょっと心が痛いが、仕方がない。それに、作家をやってること自体は事実なのだから。


「それで、いつもここに来ているあなたに、ここの海岸のことなどについて、お話を伺いたいと、思っていたんです」


 彼女は遠くの方を見つめながら、コクコクと頷いた。


「だから、あなたに風邪を引かれては、僕は困ります。次の小説が、創れないから」


 そう言いながら、既に僕はコートを彼女にかけてあげた。


「わ、私で、よけれ、ば、協力、しま、す」


 彼女はコートをキュッと握りしめながら、はにかんでそう答えたのだった。






 *


 とりあえず、小説の題材探しの取材をしているていなので、彼女について事務的な質問をいくつかした。


 彼女について知るのには都合の良い設定だ。我ながらよく思いついたと思う。


 彼女の名前は、田中真彩たなかまあや。年は、僕より一つ年下の22歳。大学には行っておらず、地元の地区センターで働いている。


 ぼくが予想していたのとは少し違ったが、やはり彼女は障がいを持っていた。軽度の自閉症じへいしょうらしい。


 彼女の場合は、人と話すのが苦手で、直接相手の目を見たり、長い間話し続けることができない。ただ、自閉症の症状に多いような「人の話を聞けない」というのは無くて、むしろ人の話を聞くのが好きなのだという。


 初めは自分の話をあまりしたがらなかった真彩だが、こちらが「僕は色覚の障がいを持っていて青色が判別できないんだ」と説明したら、「わ、わた、しもっ……!」と勢いよく話始めた。どうやら、何か障がいを抱えているという共通点を見つけて、僕への警戒心が薄まったらしい。


「そう、いえば、伊東いとうさんは、ペンネーム、と、本名、おんなじ、なん、です、ね」

「えっ……」


 真彩が自分から話しかけてきたのはこれが初めてだったので、一瞬驚いてしまった。


 すると、真彩は自分の質問が失礼なものだったのだと勘違いして、勢い良く頭を下げた。


「ご、ごめん、な、さい。わ、わたし、失礼な、こと、を……」

「ううん、ちょっとビックリしただけだよ。僕のペンネーム、知ってたんだ?」

「そ、それは……あんなに、有名、な本、書い、てるんだから……知らない、わけ、ない、じゃない、です、か……」



 トクン、と心臓が鳴った。


 それは別に女の人に褒められたからというわけではない。昔から、自分の書いた物語について褒められると、相手が誰であれ嬉しくなってしまうのだ。


「僕の本、読んだことあるの? どれが好き? 最近読んだのは?」

 ちょっと調子に乗って、つい早口で話してしまった。

「え、えと、あの、その」


 真彩は口ごもってしまった。彼女は、このように早く答えを求められるのも苦手らしい。


 僕は慌てて謝った。

「ご、ごめんなさい。つい、田中さんに褒められて、嬉しくなっちゃって……早口になってしまいました」

 すると、彼女はほっとしたような表情を見せた。


「そ、そう、ですか。……えっと、

 伊東一臣いとうかずおみさん、の作品、は、全部、読ん、で、ます、よ。作風が、好き、なの、で……」


 やばい、これはすごく嬉しい。


 自分の小説を好きだと言ってもらえて気持ちが高ぶってきたが、さっきと同じ失敗を繰り返さないよう、話し方には細心の注意を払った。


「田中さんは、どの作品が、一番好き?」

「えっと……」


 真彩は手を頰に当てながら、目をつぶって考えていた。そんなに真剣に考えてくれているなんて……と少し、いやかなり感激。


「一番、は、『ライオンの空』、です。世間、では、初期作、は、大したこと、ないって、言われて、ます、けど……私は、初期作、の方が、好き、です、よ」


 僕は思わず、自分の耳を疑ってしまった。


 初期作、しかも『ライオンの空』が好きだと言ってくれた。


 そんな人は今まで一人もいなかった。むしろ、初期作は「伊東一臣 発展途上作品」と呼ばれ、世間からの好評は薄かった。特に『ライオンの空』は、「面白みがない」と批評をよく食らっていた。


 だけど、僕が一番心を込めて書いていた作品は初期作品で、その中でも『ライオンの空』は僕の伝えたかったことを最も多く書いた作品だった。


 今まで、それを認めてくれる人なんていなかった。僕は、そのことに思いのほかショックを受けていたりしたんだ。


 でも、真彩は認めてくれた。周りが否定する話を、好きだと言ってくれた。






 その瞬間が、僕が彼女に恋に落ちた時だった。










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