『海の色は何色』2



「ただいま」


 私は実家の玄関を開けて、しっかりと挨拶をした。すると、母が出てきて「おかえり、真彩」と優しく声をかけてくれた。


 が、私の身なりを見た途端、不思議そうな顔をした。そりゃそうだ。だって、私が着ていたのは……。


「そのコートどうしたの?」


 やっぱり。私みたいなのが男物のコートなんて着ていたら、さすがに誰だって驚くだろう。


「通りすがりの、優しい人が、貸してくれたの」

 私は素直にそう伝えた。だって、本当に伊東さんは通りすがりだったし。優しかったし。


「あら、そうなのね。その人にはまた会って、このコートを返せそう?」

「……しばらくの間、ここら辺に滞在するって言ってたから、大丈夫だと思う」


 へー、と母は興味があるのかないのか、イマイチ分かりづらい返事をした。


「観光に来た人なの?」


 一瞬言葉に詰まる。伊東さんは何も話していなかったが、おおっぴらに自分の正体を明かすのは避けたいはずだ。ここで、本当のことを話していいのだろうか。


「…………」


 思わず黙り込んでしまった私に、母は優しく微笑んだ。


「無理に話さなくて平気よ。とりあえず、コート洗っちゃいましょ」

「……ありがとう、お母さん」


 私は、母の優しさに心から感謝した。




「それにしても、その人とはちゃんと会話できたの?」

 洗濯機に洗剤を入れながら、母は私に聞いてきた。


「……うん。家族と話すときみたいに、まだスラスラとは、話せなかったけど」


 そう。初対面の彼は、たどたどしい私の話し方に、嫌がる素振りを一度も見せなかった。むしろ、私が上手く話せないことにすぐに気づき、ゆっくりとわかりやすく話しかけてくれたのだ。


「あの人、すごく優しくて、良い人なの」

「良かったじゃない! ……真彩、そういう人との繋がりは大切にするのよ」

「……うん」


 母に言われずとも、そのつもりだ。




 自室に戻り、私は天井の高さくらいまである本棚の前に立つ。壁一面にズラリと並んだ本たちが、こちらを見つめている。


 人と会話をすることが苦手な私は、昔から読書ばかりしていた。そのせいで余計に話すことが億劫おっくうになってしまったのだが。


「えっと、『い』だから…………あった、伊東一臣」


 私は本を、作者名のあいうえお順で上から並べている。なので、名前順が早い伊東さんの作品は、脚立に上らないと手に届かない高さにあった。脚立は隣の部屋にある。



 わざわざ取りに行くくらいなら、別に今読まなくてもいいかな。



 多分、いつもならそう思って止めていただろう。



 でも、今日は違った。



『つい、田中さんに褒められて、嬉しくなっちゃって……早口になってしまいました』



 伊東さんの、本当に嬉しそうな表情を思い出す。顔を赤らめながらも、くしゃっと笑った表情は、私の気持ちを前へと動かしていた。



 私は脚立を持ってきて、『ライオンの空』を手に取った。


 伊東さんの作品の中で……いや、もしかしたら今まで読んできた作品の中で、一番好きな一冊。繰り返し読み返したので、ページがめくりやすくなっている。


『ライオンの空』を読みながら、今日の伊東さんの笑顔と優しさを何度も思い出した。そのたびに、胸の奥の方で小さな波が立つ気がした。




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