一週間前
早咲きの桜が小さいながらも、強く揺れていた。南から吹く春の風は、まだ寒さが残るこの地を温かく包んでくれているようだ。
あれから私は、第一志望校に無事合格し、中学も卒業した。
この三年間、長いようであっという間だった。小六のときは、正直三年間なんて長すぎると思った。けれど……。
待っててよかった。
合格発表は、マンガとかにあるかんじの……掲示板に番号が張り出されて友達と抱き合う、みたいなのではなかった。一人ずつ封筒が配られ、そこに合否通知が入っているのだ。クラスの子が「合格者の封筒にはいろいろ資料が入っているから、封筒の重さで合否がわかってしまう」と言っていたが、それもなかった。合格者は別の
部屋に行き、そこで資料などを受け取るのだ。
あの日ほど怖かった日はない。封筒を受け取ってからしばらく、開けるのためらった。しかし、私の後ろに並んでた人が「受かったぁ!」と喜んでいるの見て、私も意を決して封を開けたのだ。
合格
たった二文字だが、この二文字をつかむためにどれくらいのものを犠牲にしてきたんだろう? ……とにかく、目標はすべて達成できたのだ!
と、言いたいところだけれど……。
師匠の家に着いた。と言っても、実は師匠のマネージャーさん(この前の松田さんではなく、五十代くらいの男性だ)の別荘だったらしい。表札に「
まあ、それはいいとして。ふう、と息を吐く。心の準備みたいなものだ。
今日、ここに来た理由はひとつ。
目を閉じて、また開いて……インターホンを押そうとしたとき……。
「鍵開けてるから、そのまま入れるよ」
二階から声がした。
師匠が窓から顔を出して、笑っていた。
大好きなあったかいミルクティーを出してもらい、一息つく。甘い香りが部屋に広がる。
「それで、話って何? ボーイフレンドくんのこと?」
「それはもう大丈夫。お互い、信じてるから」
「……最近の中学生の恋愛って、こんなにアツアツなわけ?」
「もう高校生になるし! そういう師匠こそ、好きな女性はいないの?」
そう、いつもこの手の話ははぐらかされるのだ。今日という今日こそ……。
「うーん、どうせもう彩美と会うこともなくなるだろうし、ほんとうの話してみよっかな」
「マジ?」
「実は両想いだった子がね、ひとりいたんだ」
「いた?」
うん、と言って師匠はスマホで写真を見せてくれた。
「かわいい人だね。なんか、季節でいうと春っぽい」
だろ? と師匠が自慢げに笑う。
「出会ったのは、高校一年の時。その子はこっちに引っ越してきたばかりで、無口だった。俺とは同じクラスで隣の席。じゃあ、その子のエピソードを話しましょうか」
師匠が語り始めた。
夏休みのある日のことです。
とても暑い日だったので、アイスを買いに行こうと近くのスーパーマーケットに出かけました。すると、公園でその子が一人楽しそうにブランコをこいでいました。
男の子は、その子に言いました。
「高校生にもなって、ブランコ乗るなんて変なの」
すると、女の子はにこにこしながら言いました。「変でもいいでしょ、私がやりたいからやってるの」
その子は美術部に所属していて、とても絵が上手でした。どうやら、おじいさんが画家らしく、小さいころから絵を習っていたそうです。
その子はそれからも、公園に行きブランコで遊んでました。ときどき、絵を描いていたこともありました。
普段学校では無口なその子は、公園で男の子といる間はたくさん話しました。勉強しなくていいの? 行きたい大学とかあるの? 今日は涼しいね。君の絵も描いてあげようか? 一枚一万円に値下げしてあげる。 なーんてね。 宿題は終わった? 君は頭いいの? 好きな人はいる? 私はね……。
楽しそうに、たくさんたくさん話していました。そうして、夏休み最終日には、一緒にスマホで写真を撮ったりもしました。
二学期が始まるころ。その子の席はどこにもありませんでした。教室に掲示されている名簿にも名前がありませんでした。
クラスメイトはみんな、どうしてか先生に聞きましたが先生は「事情があって」としか答えませんでした。
その日の帰り、男の子は先生に呼び出されました。なんだろう、と思っていると、先生は一通の手紙を渡してくれました。
そこには、たったひとことだけ書かれていました。
「君のことが好き、これからもきっと」
男の子は、今まで感じたことなのない衝撃を味わいました。
便箋の裏には、「ご縁があったら、またいつか」と小さく書かれていました。
どういう意味かよくわかりませんでした。
そのあと、先生から聞きました。
女の子は元々、重い病気を抱えていたこと。男の子が書く作品が大好きだったので、両親とお医者さんに無理を承知で頼んで、この学校に来たこと。夏休み最終日の夕方に、急に家で倒れてしまい病院に運ばれたこと。
そして、その日の真夜中、女の子がひっそりと息を引き取ったこと……。
「男の子は後悔しました。もっと、話しておけばよかった。もっと、たくさん声を聞いておけばよかった。そして……」
師匠がキュ、と手を握った。
「自分の気持ちを、伝えたかった……」
私は、小六のときに浩介のことを師匠に相談した。そのとき、師匠は「いつ離れ離れになるかわからない」と助言してくれた。でも、どことなく表情が曇っていたのは……そういうことだったのか。
「ご縁がなくても……会わせてくれないか?」
と師匠がつぶやいた。
すると……。
少し開いていた窓の隙間から、春の香りが漂ってきた。
「……」
師匠が目をつぶる。その光景は、まるで……。
少しの間、私たちは春の香りに包まれてから、またさっきのように話を続けた。
「会いたい、って言うといつもああやって来てくれるんだ。彩美は信じるか?」
「信じるよ。互いの強く思う気持ちがあるから、会えるんだよね」
ただ……。
「ねえ、師匠。今日ね、私相談にきたの」
すると、師匠は優しく微笑んだ。
「色が創造できない、そうだろ?」
「うん」
なんとなく、師匠はもう勘づいてるのだろうな、と思っていたので驚かなかった。
師匠と初めて会って、もう六年も経つ。しかし、いまだに私の世界は白と黒しか映さなかった。
「私は、色に会いたいって強く思っているけど……色は私のこと、嫌いなのかな」
「それは違うよ」
師匠が断言した。
「まだ彩美が、色に寄り添おうとしてないだけだ」
「そんなことっ……」
本当にないだろうか?
どこかで、「どうせ色なんかなくても生きていける」と思ってたりしてないだろうか。白黒で十分だと思っていないだろうか。
「だって……みんな、『色』にとらわれすぎてる気がするんだもん。例えば、修学旅行」
小六の日光を思い出す。
「戦場ヶ原から見た紅葉は……色がなくても綺麗だった。自然がもたらす美しさに正直……すごく魅了された。でも」
すごい、赤くてきれい!
オレンジと黄色のグラデーションがすごい!
色がきれい!
色が……!
「みんな紅葉の色だけに夢中で、ほんとうはもっと葉っぱの生命力とか、自然の強さとか……そういうものを感じられるはずなのに」
だから、色はなくてもいいんじゃないかと思ったのだ。
「確かに、そう」
師匠が言った。
「そうだけど、みんなはみんな。彩美は彩美。違うか?」
違くない、と言って首を振った。
「彩美なら、色があってもなくてもきちんと『真の姿』を感じられるはずだ」
じゃあ例えば、と言って師匠は窓を開けた。
「あそこにある桜。……ほんとに早咲きだよな。あれ、何色だと思う?」
普通の人なら、ピンクと答える。
「私は、赤かな」
「ほう、どうして?」
「きっと、春が待ち遠しくてみんなが寝てる間にこっそり咲いちゃったんだろうな。そしたら、外はいろんなもので溢れている。わくわくして、ちょっと風が吹いただけで強く揺れてみせる。どうだ、僕は強いんだぞ、風でも虫でもなんでも来い、って。僕の血が騒いでるぜ、みたいな」
師匠がクス、と笑う。
「だから、赤。元気良くて、冒険好きな桜だから……あれ?」
赤。
小一の事件のとき、絶対に見たくない色だと思った赤が、
見える。
色が、わかる?
「師匠」
うん、と師匠。
「ねえ、師匠」
はいはい、と師匠。
「色って……自由なんだね」
自分の想像力と創造力で、何色でも作り出せる。
「ありがとう、師匠」
涙が溢れた。
「……世界がこんなにも綺麗だなんて、知らなかった」
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