『海の色は何色』21
*
暗い、暗い、海の底。
海底に光は届かない。
コポ、コポ、コポポポポ。
息苦しいけれど、どこか体は軽い気がする。
海の底は冷たくて、まるで死体のようだ。
淀む景色の中、一瞬光の筋が見える。
それを掴めばここから出れることはわかった。だけど、この海底の気持ち良さに囚われ続けたいと思っている自分もいる。冷たくて暗いけれど、もうどこにも行きたくないと思わせる、この感覚。
夢か
生か死か。
わからない。
だけど、何かが足りないのは感じる。何か、大切なものがあった気がする。
手は動かない。
けれど、光はまだ差し込んでくる。
「私を掴んで!」という声が、遠くの方で、だけど、はっきりとする。
光は目の前まで来ていた。
____温かい。
懐かしいな、この感じ。これが、僕の欲していた何かの正体だろうか?
なんだろう、誰だろう。
お母さん? 違う。もっと、もっと大切な、他の誰か____。
ああ。
君か。
「真彩」
*
コポ、コポ、コポポポポ。
暗い海底から出て最初に見えたのは、真っ白い天井だった。眩しい。純白なその色は、海底とは正反対だ。
スン、と鼻をすすると、消毒液の無機質な匂いがした。
なんとなく、大きく深呼吸をしてみる。すると、色んな空気が、音が、色が、体中に広まった。
ああ、なるほど。
これが生きるということか。
今更ながらに僕は感心した。
ふと、腹部に温かい感触があったので手を動かして確認する。
ん、人の頭?
重い上体を起こして見てみると……。
真彩が寝ていた。
そうか。
君が、助けてくれたのか。
「ありがとう」
そう言って僕は彼女の頭を撫でる。
すると、真彩は「んん」と唸りながら顔を上げた。
「和臣さん……」
「おはよう、真彩」
「…………」
真彩の顔がゆっくりとこちらを向いた。
「……真彩が助けてくれたんだよね。ありがとう」
「………………」
「真彩?」
「……てる」
「え?」
「生き、てる……」
途端、真彩の目から大粒の涙が溢れ出した。
「和臣さんが、生き、てるっ……!」
「生きてるよ。おかげさまで」
そう言って微笑みかけた僕を、真彩がぎゅう、と抱きしめる。
彼女は小さく嗚咽を漏らしながら、しばらくの間そのままだった。
*
「お守り、光ちゃんに渡しといてくれた?」
僕が聞くと真彩はコクリと頷いた。
「よかった。死にかけてまで取りに行ったのに、結局渡せなかったら無駄な苦労になるところだった。あー、本当によかっ……」
「全然よくない!!」
普段は声の小さい真彩が、珍しく大声で叫んだので僕はたじろいだ。そこに漬け込んで、真彩はグイっと僕に近寄ってくる。……ちょっと怖い。
「だって、和臣さん、死んじゃうところだったんだよ? 私がどれだけ怖かったか分かる? すごく辛かったんだよ……」
「ご、ごめ……」
「だけど、無事で良かった」
そこで真彩は椅子から立ち上がった。
「和臣さん」
真彩と目が合う。その真っ直ぐな瞳にどこまでも吸い込まれそうになる。
風はどこまでも静かだった。
「私、和臣さんが好きです」
僕は自分の耳を疑った。
____好きです。
確かに、彼女はそう言った。
「私、和臣さんと出会ったときから、ずっとあなたのことが好きでした。……ううん、今も変わらず好き」
僕は何か喋ろうとしたが、上手く声が出せない。
「昨日海で死にそうだったあなたを見て、私、すごく怖かった。失いたくないと強く思った。自分の寿命を縮めたっていい、他には何もいらないから、和臣さんを助けてって、何度も祈った」
開いた窓から爽やかな風が吹く。
純白のカーテンが淡く揺らめいた。
「あなたは私のことなんて何とも思ってないかもしれない。他に好きな女性がいるかもしれない。それでも私は……」
出会った頃より少し伸びた真彩の髪が、風になびく。
「あなたが好きです」
僕は抑えきれない感情を、彼女を抱きしめることで形に変えた。
「バカだなぁ、真彩は」
温かい日差しが、僕らを優しく照らす。
「そういうのは男から言うもんなんだよ」
「でも……」
僕は立ち上がった。
点滴が外れたが、気にしない。
真彩の目の前に立つ。
「伊藤和臣は田中真彩を」
ベタな告白かな、とは思ったがそのまま続けた。
「愛しています」
真彩の表情が緩む。
そよ風が僕らをそっと包む。
僕はと言うと、急に弱腰になってしまい、「こ、これを10年に1回くらい言ってやるよ」と、とある漫画のセリフを引用した。
真彩がクスクスと笑う。
つられて僕も笑う。
視線が絡み合う。
熱く長い視線だった。
僕らは、互いに求めていた。
そして、どちらからともなくキスをする。
温かい、幸せな風が吹いていた。
*
「そうだ、ずっと聞こうと思っていたんだ」
真彩はなぁに? と聞き返した。
「海の色って、何色なの?」
真彩は一瞬戸惑いを見せる。が、すぐに「そんなの決まってるじゃない」と言って微笑んだ。
「和臣さんみたいな色だよ」
……僕みたいな色?
上手くその例えを想像できなくて、「どこら辺が?」と聞いた。後から思うと、真摯に答えてくれた真彩に対して、僕の態度はちょっと失礼だったかもしれない。だけど真彩はこの問いにも心を込めて答えてくれた。
「全部だよ。和臣さんの優しさも、強さも、心の広さも、創造力の豊かさも、格好よさも、ちょっとおちゃらけてるところも、苦悩も、他人思いなところも……言い出したらキリがないけど、全部」
真彩は僕の手をぎゅっと握った。
「私が初めて好きになった人は、そういう人。海みたいな人だよ」
そこで、ある記憶が流れ込んできた。
まだ自分の目が正常だった頃。2歳か3歳くらいか。
母と二人で、海に出かけた。
僕が青色を判別できなくなったのは、後天性だ。4歳の頃にそうなった。
けれど、そのときまではきちんと見えていたのだ。海の色も、空の色も。
思い出した。
海の青色の美しさを。
眠っていた記憶の中から、どんどんと流れ出てくる。
『
母の言葉。
その頃は理解できなかったものが、今ならわかる。
そうか。
海の色は…………。
「僕が海の青なら、真彩は空の青だね。海の一番近くで、優しく見守ってくれている色だ」
僕も彼女の手を握り返す。
「僕の好きになった人は、そういう人」
青色の風が、僕らの間を吹き抜けた。
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