『海の色は何色』27


 ✳︎



 夢を見た。



 父と母が二人で並んで歩いている。僕は、その二人を空から眺めているのだ。


 二人はやがて、細い二つの吊り橋の前に来た。その二本は、それぞれ一人しか通ることができない橋。一人が通った後は、崩れ落ちてしまう。


 しばらくの間、二人はそこで立ち止まっていたが、やがて「時」のバケモノがやってきて二人を飲み込もうとした。


 慌てた二人は、別れの言葉もそこそこに橋を渡る。


 橋は二人を遠くへと引き離す。


 しかし、二人とも目は輝いている。


 二人が見ている先は、僕だ。

 空にいる僕に向かって、二人は笑いかける。



 大丈夫。


 側にいなくても、家族の絆は切れない。離婚届なんていう紙っぺら一枚がどうした。そんなもので崩れるような絆じゃないだろう?



 私たちは、誰がなんと言おうと家族だ!



 たとえ、その形が消えてなくなったとしても…………。





 ✳︎


「…………夢、か」


 目からこぼれ落ちた涙が、枕に染みた。上体を起こして、涙を拭ってから、ふとカレンダーを見る。そこで、「結婚式」の印が今日だということに気がついた。


「いよいよか」

 田崎が部屋に入ってきて、僕にそう声をかけた。


「はい……田崎さんの家で過ごすのもこれで最後ですね」


「高級マンションにしたんだよな? 一日くらい俺にも貸してくれよー」


 そう。

 僕の作品がいつの間にか再ヒットしたとかで、印税がガポガポ入ってきたのだ。そのおかげで、一軒家を買う余裕はなかったが、マンションを借りるくらいのお金はできた。


「一日と言わずいつでも。多分、式のあとしばらくは、田中さんの家で居候するのでその間ならフリーです。部屋、何もなくていいならどうぞ」

「じゃあ、浴室に隠しカメラでも付けっ……むごっ」


 僕は田崎の口を強く手で抑える。

 僕の方が少し背が低いので、見上げる形ではあるが、田崎を思いっきり睨みつけた。


「田崎サンよぉ、それやったら、どうなるかわかってんだろうなぁ?」



 コクコクと小刻みに頷く田崎を見て、僕は我に返った。


「あ、ごめんなさい。つい……」

「いや、『つい』じゃねーよ! ちょっと俺、本気でビビっちまったじゃねぇか。てか、お前もそういう言葉遣いするんだな!」

「まあ、たまに……」


 公園でのプロポーズを思い出して、思わず苦笑。


「いやぁ、それにしてもあっという間だったな、お前と過ごしたのも」


 ちょっと寂しくなるな、と田崎が名残惜しそうに呟いた。


「田崎さん」


 僕も寂しいです。だけど、寂しさよりも今は……。


「本当にありがとうございました!」


 感謝でいっぱいです。


 すると、田崎さんは豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をしてから、急に目頭を抑えた。


「お、おい、いきなり何だよ。なんだか泣けてくるじゃねぇか」

「いきなりじゃないですよ。田崎さんが寂しくなるとか言い始めたから、そういう雰囲気になったんです」


 二人で目を潤わせながら、笑った。



 ✳︎


 結婚式は11時から始まる。


 僕はタクシーを呼んで、式に向かった。いかにも人見知りしています、というような態度の運転手だったが、僕が代金を支払う時には「結婚おめでとう」と祝福してくれた。


 なんだか、全てが嘘みたいだ。

 まるで、今までのことが全部夢だったかのような、そんなかんじ。


 でも、僕らは結婚する。


 空には太陽が高く上っていて、街はどこかいつもより眩しい。青く澄んだ空も、今の僕にはどんな色だかわかる。耳をすませば、たくさんの音が聞こえる。街が立てる生活の音もそうだし、鳥のさえずり、虫の鳴き声、木々の音、花の音、空の音、太陽の音、たくさんたくさん聞こえる。


 僕の心の音も、今日はいつもよりよく聞こえる。


 空から目を離して、式場に入ろうとしたときだった。


 ポツリ、と水滴が当たった。


「え……」


 空は快晴。

 しかし、どこからか落ちてくる水滴。



 お天気雨である。



 アスファルトには、小さな水のあとが次々とペイントされていく。



 眩しい。



 結婚式の日に雨なんて、と思ったけれど、かえってその方が空が綺麗に見えるとは知らなかった。



「キツネの嫁入りだね」


 さまざまな音が聞こえるその中から、君の声はまっすぐに僕の耳に届いた。


 声のした方を振り向くと、真彩が笑って立っていた。まだドレスは着ていない。


「キツネの嫁入りって?」


 僕が尋ねると、真彩は呆れた顔をした。


「もう、作家なのにそんなことも知らないの?」

「うん、情けないけど」


 真彩はわざとらしくため息を尽きつつも、楽しそうにその意味を教えてくれた。


「お天気雨の日にはね、キツネが結婚式を開いてるんだよ」

「そのままの意味なんだね」


 僕の率直な感想が気に入らなかったのか、真彩はコツン、とこぶしを僕の額に当てたのだった。




 ✳︎


 式が始まるまでは大忙しだった。着替えるのもそうだし、式場で初めて互いの両親が会うわけだから、挨拶もしなきゃいけない。


 父は、本当に盲目となっていた。


 手紙や電話越しで聞くのと、実際にこの目で見るのでは現実味が違う。


「父さん……」


 呼びかけると、父はゆっくりとこちらを振り返った。そこには、僕の知っている威厳に満ちた男の面影はない。ただ弱々しく、おぼつかない表情をしている。


 複雑な気持ちだった。


 結婚式という祝いの席で、こんな気持ちになるのは不本意だ。しかし、こればかりはどうしようもなくて。


 ただ、伝えたいことだけは、はっきりしている。


「僕を育ててくれて、ありがとう」


 顔が熱い。こんなことを、この人に言う日が来るなんて思いも寄らなかった。恥ずかしさがこみ上げてくる。


「そ、それじゃあまたあとで」


 恥ずかしさでいても立ってもいられなくなってその場を離れようとした。しかし、「待ちなさい」という低い声が僕の足を止める。


「こちらこそ、生まれてきてくれてありがとう」


 父は笑っていた。

 今朝、僕が見た夢と同じように。


 それじゃ、と短く別れを告げて、父はそそくさと逃げるようにして看護婦さんと共にその場を去って行った。なんだか様子がおかしいなと思って、辺りを見渡す。


 すると、視界の端に白い波を捉えた。


「真彩、着替えたんだね」


 綺麗だ。僕は、無意識でそう呟いたらしい。真彩が顔を赤くして、嬉しそうにした。


「いよいよ、だね」

「うん」

「和臣さん、緊張してる?」

「……少しだけ」


 もう、と顔を膨らませながら、真彩は僕の手を握った。


「幸せになろうね」


 真彩が、こちらを見上げて優しく微笑む。その姿は、まるで女神のようだった。


 だが、女神の言葉に僕は嬉しい気持ちよりも少し呆れてしまった。


「そういう言葉は男から言うものだってこと、何度も教えたよね?」


「いいの。私がそう言いたかったから」


 真彩の考え方はいつもこうだ。自分がやりたいこと、言いたいことを、ありのままに伝える。すぐ行動に移す。


 だから、彼女は何かにとらわれたりしない。


 素敵な人だ。






 時計の針は、まもなく式の始まり時間を示す。


「それじゃあ、行こうか」

「はい」




 今日、僕らは夫婦になる。








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