『海の色は何色』32


 ✳︎


 巧海が和臣さんと戦いごっこをしている。戦隊モノや仮面ライダーにどハマりしている巧海の、最近の日課である。


 その光景を見ながら、なんだかんだいって、父と息子の絆は母とのそれよりもずっと強いような気がした。


 羨ましい。


 子が一人でも出来ただけで、それはとても幸せなことだ。しかし、私は思わずにはいられないのだ。



 娘が欲しい、と……。



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「女の子が欲しい」


 その日の夜。巧海がスースーと寝息を立てたのを聞いてから、私は和臣さんにそう切り出した。それが、かなり大胆な行為であるとは、一応は自覚しているつもりだ。


 しかし、そんな私の言葉に和臣さんは驚いたりせず、むしろホッとしたような顔をしていた。


「……やっと言い出したか」

「え、な、なにを?」

「だから娘つくりたいってこと」

「きっ、気づいてたの!?」


 私は一気に顔が熱くなるのがわかった。すごく恥ずかしい。穴があったら入りたい。いや、いっそ地球の裏側まで行ってしまいたい。


「当たり前じゃん。僕がどれだけ真彩のこと見てきてると思ってんの? 多少の心境の変化くらい、手に取るようにわかるよ」


 ますます、恥ずかしさがこみ上げてくる。


 和臣さんは、枕におしつけられて少し潰れたほっぺたにえくぼを浮かばせながら、体温の上がった私の手を握りしめた。



「巧海の妹か。楽しみだな」







 ✳︎


 いくらか月日が経った頃。

 急に吐き気が襲ってきたのだ。


 来た、と思った。ついに来た。


 子を産むのを一度経験しているから、どのタイミングでどのような症状が出るかとか、どのくらい辛いかとかがしっかりと把握できたので、あまり驚きはしなかった。


 しかし、そうこうしている間にも次々と吐き気は襲ってくる。これは、間違いない。冷静を保ちながら、私は検査薬を取り出した。



 そして、数分後。

「陽性」の判定が出たのだ。



「よかっ……た」


 安心して力が抜け、私はその場にへたり込んでしまった。仮面ライダーを見ていた巧海が「だいじょうぶ?」と、わざわざ私のところまで寄り添いに来てくれた。


「うん、大丈夫よ。ありがとね、巧海」


 そう言って、巧海の頭を撫でようと手を伸ばしたときだった。


 視界が一気にぼやけ、世界が白く淡くなってゆく。


「あ、あれ……?」


 次第に薄くなる意識を、懸命に持たせようとした。


 しかし、その努力も虚しく、全身の力が抜けた。


 最後に聞こえたのは、巧海の私を呼ぶ声だった。






 ✳︎


 気がついたときには、私は病院のベッドの上だった。つい先ほど、意識がはっきりと戻ったのだ。しかし、記憶にないだけで、その前に何度か目を覚ましていたらしい。そのときに、私は何度も何度も「赤ちゃんができた」とつぶやいていたのだという。


 新しい命が宿った自分のお腹を触る。


 温かい。


 そして、なんとなく左腕に繋がれた点滴をぼんやり眺めてみた。



 一体、私の体に何が起きたというのだろうか。


 巧海のときは、こんなことなかったのに。


 そんなことを考えていると、病室の外で誰かと誰かが話している声が聞こえた。そのうちの一人は、聞き覚えのある声だった。おそらく、和臣さんだ。


「……それじゃあ、…………真彩は……どうなる……すか? 大丈……ですよね?」

「……のままだと、……流産……可能性が……」


 流産。


 ところどころ抜けた言葉の中で、その単語だけは明確に聞き取れて、いや聞き取ってしまった。


 もう一度、お腹を触る。


 大丈夫。

 あなたの命は、私が必ず守るから。





 ✳︎


「真彩」


 お医者さんとの話が終わったのだろう、和臣さんが病室に入ってきた。


「具合はどう?」


 ここで、少しでも辛い表情をしたりすれば、出産を止められるかもしれない。だから、私はいつも以上に笑顔を見せた。


「うん! おかげさまで、もうすっかり元気! お腹の子も、元気だろうしね」


 あえて嫌味を言ってみる。絶対に中絶はしない。もちろん、流したりもしない。そういう決意を込めて。


 和臣さんの一瞬曇った表情を、私は見逃さなかった。やっぱり、彼は私の身を案じているのだ。もちろん、それは嬉しいことなのだが、母親には母親の仁義ってものがある。


 授かった命は、必ずまもり抜くということだ。


 これは、他でもない、母親にしかできないこと。お腹の中にいる我が子と繋がっている、母親の使命なのだ。


 だから、子を産むことがたとえ自分に危険を脅かすようなことになったとしても、私はなんとしてでも出産をするのだ。


「私、絶対この子生むからね」


 私は和臣さんの目をしっかりと見ながら言う。すると、向こうも反論してきた。


「なあ、真彩。どうせ、外での話、聞いてたんだろ? その話を聞いても、まだ自然出産したいっていうのかよ」

「流す可能性が高いって話でしょ? そんなの産んでみなきゃわからないじゃない!」


 そこで、和臣さんの口が止まった。しかし、すぐに慌てて言葉を繋ぐ。


「え、ちょっと待って。最後まで話聞いてなかった?」


「……はい?」







 ✳︎


 どうやら、外で話していたことには続きがあったらしい。




“このままだと流産をする可能性も高く、奥さんの体にも危険が及びます。まだ、妊娠が始まってすぐの段階だから、治療をすれば中絶をしても負担はそこまでかからない。


 妻子共に危険があり、しかも子供はほぼ流れる確立の方が高いのなら、せめて妻だけは助かって欲しいと思いませんか?


 それに子供の件なら、少しお金はかかりますが、体外受精という方法がある。つまり、これが最後のチャンスというわけではないのです。


 今、新しく宿った命のことを思って出産を望んでいるみたいだが、それでは本末転倒だ。


 自分は死んでもいい、子供は生みたい。それがもし本当になったとして、生まれて来た子はどう思う? 自分を産むために死んでしまった母親のことを聞いて、少しも苦痛を感じずにいられようか?


 もう一度良く考えて欲しい。”



「……とまあ、これがお医者さんの考え」


「悔しいけど、正論ね」


 目頭が熱くなった。だけど、絶対に泣くもんか。だって、一番辛いのは私じゃない。


 お腹の中にいるこの子が、一番辛いはずだ。



 だから泣くもんか。



「……つらいね」


 和臣さんが私の背中をさする。


 その瞬間、かろうじて止まっていた涙が、溢れ出した。



「……ごめんなさい……ごめんなさいっ……!!」



 こんな母親で、あなたのことを護れなくて。





 ✳︎


 私たちは、中絶することを医師に伝えた。


 そして同時に、体外受精の件も話を進める。いくらお金がかかるとか、手続きはいつまでにとか。


 正直、全く話が頭に入らない。というか、体外受精をするのも気が引けた。


 ただ思うのは、もうすぐ消えてしまう命のことだけ。



 そんなとき、医師と入れ替わりに、産婦人科のナースが入ってきた。


「……真彩、久しぶり」


 その声に、私は顔を上げる。


「……千尋……」



 そう呟いたときには、体をぎゅう、と抱きしめられていた。


「辛かったね…………」



 震える彼女の声を聞いて、私は千尋も何度か流してしまっていることを思い出した。


「千尋も……こんな気持ちだったんだね」



 病室は、女二人のすすり泣く声に包まれたのだった。








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