『海の色は何色』6
*
伊東さんの顔が固まった。
予想はしていた。多分、すごく傷つくだろうなって。彼はきっと、自分のことよりも、自分の作品の方が好きな人だから。
でも、このくらいズバリと言わないと届かない気がした。私の、小さくて頼りない声では届かない。伝わらない。
だから、言葉を選んだ。
何度も、何度も、頭の中で考え、どうすれば心に届くか想像した。
こんなに、誰かに何かを伝えたいと思ったのは何年ぶりだろう?
「……理由は?」
彼は傷ついたその顔を、そっぽを向いて無理やり隠した。ぶっきらぼうな喋り方は、私に失望したと暗に言っている気がする。
それでも、私は負けない。彼に、元に戻って欲しいから。優しい彼で、いて欲しいから。また、『ライオンの空』を見上げたいから。
「だって伊東さん、最近の話を書いてて、楽しくないでしょう?」
彼は、そっぽを向くのをやめて、もう一度私の目を見てきた。
それでいい。
私も、人の目を合わせて話すのはすごく苦手だけど、頑張って合わせるから、あなたも逃げないで。
本当の自分から、遠ざからないで。
「最近の作品は、ミステリー要素を含んでいたり、ドンデン返しが起きたり、はたまた主人公の親友が死んだ話だったり……世間の人が面白いと思う話や、感動しそうな話を作っているだけですよね」
私は目にグッと力を入れた。多分、そうしていないと、本当の伊東さんを見失ってしまいそうだったからだ。
「不可解な現象がそんなに面白いですか? 急にありもしない展開が待っていることは、誰かをそんなに驚かせますか? 人が死ぬことがそんなに素敵ですか? 感動しますか? そういう上辺だけの作品は、誰かの胸に響きますか? 届きますか?」
一気にまくし立てたせいで、私は少し息切れをした。
その瞬間を見計らってか、伊東さんが反撃に出た。
「僕だって、そうしたくてしたわけじゃない」
彼は、いつのまにか、敬語を使わなくなっていた。そんなことは今はどうでもいいのだけど。
「真彩さんにはわからないだろうけど、自分が思いを込めて創った作品を、世間の人から悪評を受けるのって、すごく辛いんだよ」
伊東さんの言う通りで、私なんかにはわからない。いや、多分わかってはいけない。物語を生み出す人の気持ちは、物語を生み出す人にしかわからないはずだから。
「でも、例え薄っぺらい内容でも、売り上げが伸びれば褒められる。自分が気に入らなくても、世間の好評はもらえるんだ。その方が、本も嬉しだろ? たくさんの人に読んでもらって、映画になったりもして」
「それは、違うと思います」
私はすかさず反論した。今この状況を周りで誰か見ていたとしたら、私は健常者としか思われないだろう。それくらい、言葉がスラスラと出てきた。
「本は、そんな気持ちで作られたって喜びません。例え、多くの人から喜んでもらえたとしても、生みの親の思いが込められてないのなら、意味がない」
海の先の遠くの方で、ドス黒い雨雲が見える。
「それなら、世間から嫌われたとしても、伊東さんが心を込めてくれたものの方がよっぽど幸せだと思いまっ……」
「アンタに何がわかるんだ!」
ドサっと、鈍い音がした。伊東さんが、私のことを突き飛ばしたのだ。こんなこと生まれて初めてだった。誰かとケンカして、突き飛ばされるなんて。
気づいたら、私は泣いていた。
なんで泣いているのかはわからない。それどころか、自分が怒っているのか、悲しいのか、呆れているのか、感情もごちゃ混ぜだ。
さすがに伊東さんも自分のしたことを理解したのか、顔を青ざめてこちらに手を差し出した。「ごめん、ついカッとなった」と言ったその顔は、とても苦しそうだった。
「だけど、わかってほしい。真彩さんの気持ちはよくわかるし、実際そうあってほしいと僕も思ってる。けど、世間はそんなに甘くないから」
そう言って、彼は「帰れよ」と私を追い払うように手を払った。
「仕事、始まる時間だろ」
そして、彼は一言付け加えた。
「生きるためには、自分の嫌な仕事もやらなきゃいけないんだよ」
私はその言葉の意味が胸に突き刺さって、苦しくなった。
どうすればいいのかわからずに立ち止まっていると、「早く帰って」とさらに急かされたので私は彼に背を向けた。
別れの挨拶はできないまま、私たちの絆はすれ違って……やがて、消えてしまった。
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