『海の色は何色』8
……言わなきゃよかった。
言わなければ、お互い傷つかなかったのに。
私は部屋の中で、何度も悔やんだ。何を自惚れていたんだろう。こんな私の言葉でも、伊東さんなら信じてくれるかもしれないとか、また元に戻ってくれるかもしれないとか。
「私の、バカぁ」
バカだ。本当に。何やってんだろう。
伊東さんだって、苦しんでいたはずなのに。書きたいことが書けなくて、辛かったかもしれないのに。
それなのに私は、正義の味方ぶって、偉そうに……。
「うぅっ……」
頑張って声を押し殺そうとしたが、ダメだ。嗚咽がどうしても漏れる。
伊東さん、ごめんなさい。
私も嘘をつきました。
本当は伊東さんの作品、私は全て好きです。
初期作はもちろん、今の作品だって、良い作品とは言い切れないけれど、それでも好きです。
あなたの物語の中に、私も登場できたのならどんなに嬉しいか。いつも想像していました。
ただ、少しキツく言わないと心に届かないかなって思って、つい「嫌い」と言ってしまったんです。
でも結局、何もなかった。古い傷に塩を塗り込むような真似だけして、終わってしまった。
あなたと出会ったのは、奇跡なのかな。それとも、たまたまなのかな。
どちらでもいい。だけど、この出会いを無駄にはしたくない。こんな形でお別れするのは嫌。絶対に嫌だ。
まだ彼は、浜辺に残っているかもしれない。今から戻れば、会えるかもしれない。
もしまた会えたなら、私はたくさん傷ついてもいいから、伊東さんの本音を全て聞こう。それで、仲直りもするんだ。
絶対の絶対に、このままだけは嫌だ。
しかし、窓の外を見て私はすぐに落ち込んだ。
「雨降ってる中、いるわけないよね」
自嘲気味に笑う。そうだ、こんな雨の中いるわけない。
それでも。
「行こう」
*
お気に入りの淡いピンク色の傘を片手に、私は小走りで浜辺へと向かった。
雨足は次第に強くなっている。仕事に行く前なのに、服はびちょびちょ。でも構わない。仕事よりも、私には大切な用事がある。仕事を後回しにしてでも、会いたい人がいる。
そこでふと、母の言葉を思い出した。
______『他の何にも変えられない』って気持ち。それが恋なの。
これって……。
「恋……なのかなぁ」
もしそうだったとしても、伊東さんが私のことをそういう風に見てるとは思えない。つまりは、叶うことのない恋。
……それでもいいや。
私はとにかく、あの人と笑顔で別れたい。別れは辛いけど、あんな形のまま別れるのはもっと辛いはずだから。
海岸沿いの国道から抜けて、私は砂浜に入っていった。
少し霧がかかっていて、前が見えにくい。おまけに風も強いので、髪の毛がなびいて邪魔だ。
いつも座っている場所は、古い漁船と丸太が積まれている小屋のすぐ近く。
小屋は見えた。
だけど、人影は今のところない。
さすがに、ね……。
こんな雨の中、いるわけないじゃない。
しかし、「もしかしたら」という思いは中々消えず、結局いつもの場所にもう一度座っていた。ぐちょぐちょの泥と化した砂の上に直接座る。お気に入りの花柄のフレアスカートだが、構わない。もう、何もかもどうでもよくなってきた。
彼は、いなかった。
やっぱり、私が自惚れてただけだ。彼なら残ってくれるはずだと、心のどこかで信じていた。けれど、そんなことはなかったんだ。
「はぁ……」
もう涙も出ない。いや、もしかしたら出てるのかもしれないが、こんな雨の中じゃ同化していて、誰も気づかないだろう。
「ねぇちゃん、田中のトコの娘さんだろ?」
急に話しかけられて、思わずビクリと肩を震わせてしまう。
「ああ、大丈夫大丈夫。怪しいやつじゃねぇよ。俺、
「あ……い、いつも、父が、お、お世話、に、なって、ま、す……」
おそらく、父の知り合いなら私の症状のことも知ってるはずだ。だから、話してもさして驚かないだろう。
案の定、父の先輩さんはとくに気にした様子も見せず、私の頭上に傘を差してくれた。
「堅苦しい挨拶なんぞいらねぇよ。とりあえず、ここじゃぁ綺麗な顔が濡れちまうから、小屋の中に入ったらいい」
狭くて汚ねぇ小屋だけどな。そう言って、先輩さんは私の手に傘を納めてとっととその場を後にしようとした。
お礼、言いそびれた。
と、がっかりしていると、「あ、そうだ」と先輩さんがこちらに呼びかけた。
「さっき若い兄ちゃんがよぉ、そこら辺でデッケェ荷物持ってから、雨の中どっか行ったぞ。ったく、俺が寝てる間に勝手に小屋ン中入ってったんだよ」
「……? デッケーニモツ?」
大きい荷物、という意味に変換するのがやや遅れる。そんな私を見かねてか、先輩さんは「そうそう、ダンボール抱えてた」と助け舟を出してくれた。
もしかして、それが関係してんのか? と先輩さんは私に問いかけてきた。
関係、大アリだ。
……だって、それは私の宝物!!
あんな感じで別れてしまったので、すっかり忘れていた。別に隠すようなものじゃないし、元々伊東さんに見せたくて持ってきたのだが、この雨中だと濡れてる可能性もある。伊東さんに保護されているのなら、ひとまず安心だ。
「そ、その人、どこ、行ったか、わかりますか!?」
私が必死に問いただすと、先輩さんはニヤニヤと笑いながら「ホテルがどうとか言ってたぞ」と教えてくれた。……今、この人、いやらしい事を考えてたに違いない。
しかし、そんなのに構っている暇はなかったので、「ありがとうございます!」と短く答えて、私は急いでホテルへと向かった。
*
ホテルと言ったら、この辺では三つしかない。
一つは、砂浜からも見える市営ホテル。もう一つは、ここから車で10分ほどのチェーンホテル。
そしてもう一つが、ここから徒歩五分ほどの高級ブランドのホテル。……まあ、普通に考えればここしかない。
と思って来たのだが……。
「伊東さんなら、つい先程チェックアウトされましたよ」
「そ、そんなぁ……」
ガクリ、と肩を落とす。私は、どうしてこうも、ワンテンポ遅いのだろう。
「何かご用事でも?」
と美人なスタッフさんに聞かれ、少し気後れしてしまう。
「よ、用事、ってほど、じゃ、ない、んです、けど……あの、彼、ダンボール、持っていません、でしたか? こう、このくらいの」
両手を広げて、私は大きさを説明する。
すると、スタッフの一人が「あっ」と反応した。
「失礼ですが、『真彩さん』ですか?」
「えっ!? あ、はい、そう、で、すけど……」
すると、その人はニコッと笑って「お客様ご案内お願いしまーす!」と周りのスタッフに声をかけた。
「ええっ?」
わけもわからず、されるがままに案内をされる。
「あ、あの、私、お金とか、なくて……」
「ご安心ください。伊東様が、前払いをしてくださいました」
「えぇぇ!?」
ますます混乱している間に、私はエレベーターに乗せられ、最上階まで連れていかれたのだった。
*
部屋に着くと、スタッフの方が、タオルや替えの服、温かいお茶などを用意してくれた。
「何かご不明な点がございましたら、何なりとお申し付けください。この呼び鈴を鳴らしていただければ、スタッフが参ります」
「は、はぁ」
「それではごゆっくり」
ガタン、とオートロック式のドアが閉まった途端、私はその場にへたり込んでしまった。
伊東さんが私がここに来るだろうとあらかじめ予想していたのか、なんとスタッフさんに、「もし、ダンボールについて尋ねてくる女性が来たら、僕の部屋に案内してください」と頼んでいたそうだ。一応、男女のアレを気にしたのか、「あ、メイキングし直してくれると助かります」と顔を赤らめて頼んでいた、という余計な情報まで教えてもらった。
そして、いくらかくつろいだら好きなときに家に戻っていいと伝えられた。親御さんも心配しているだろうから、とのことらしい。
とりあえず、シャワーを浴びることにした。ぐちょぐちょに汚れてしまった服はスタッフさんが洗ってくれているらしい。やはり高級ホテルは、もてなしが違う。
浴室も大理石の床で出来ていて、シャンプーやリンスも海外の高級ブランドものだった。
なんだか使うのが申し訳なくなるが、使わないと髪もバサバサのままになってしまうので、ありがたく使わせてもらった。
伊東さんは怒っているのだろうか。
でも、こんなことをわざわざしてくれるということは、やっぱり、もう一度話そうと思ってくれているのだろうか。
しかし、スタッフさんからの伝言には一言も「もう一度話そう」という意味合いの話はなかった。ということは、これは最後になんとなくの贈り物? もしかしたら、自分の富を自慢したいだけ?
いや、彼はそんな人じゃない。
ここにずっと残っていれば、会えるのだろうか。
しかし、そういうわけにもいかない。本人が危惧していたように、両親に一言も告げていないので夜遅いと心配をかけてしまう。
ホテルから電話をかければいいのかもしれないが、何て説明すればわからない。むしろ逆に心配されてしまう。
浴室を出ると、タイミング良く、外からノックの音が聞こえた。
「ど、どなたですか?」
「あ、驚かせてすみません、お洋服乾きましたのでお届けに参りました!」
え、もう!? と驚きながら、私は小走りでドアに向かった。念のためドア穴を覗き込むと、たしかにスタッフさんがいる。
ガチャリ、と重い音を立ててドアを開けた。
「あの、ありがとう、ございます」
「いいえー、お構いなく! それにしても、このスカート本当に綺麗。今度私も買っちゃおうかしら」
スタッフさんは、快活に笑った。いつもなら、こういうタイプの人とは一番話すのが苦手なのだが、この人は一味違う。明瞭に、且つリズムよく話してくれているから、聞いていて落ち着くのだ。
そのことに安心したのか、私は咄嗟に声が出ていた。
「あのっ……伊東さんと、私、ケンカ、しちゃったんです」
スタッフさんもいきなりの発言に驚いていたが、すぐに「私で良ければ何でも聞くよ」と言ってくれた。
「その代わり、今はスタッフとゲストという立場じゃなくて、普通に同年代の女性として、でいいかしら?」
「も、もちろんです!」
「私、
千尋はニコッと笑って、左手を差し出した。どうやら、握手を求めているらしい。しかし、私はその薬指に思わず目が行ってしまった。
……結婚、してるんだ。
微動だにしなかった私を見て心配したのか、千尋は「握手嫌だった?」と聞いてきた。
「そ、そんなことない!!」私は慌てて首を振って、同じようにブンブンと激しく握手した。それを見た千尋が「大げさすぎ!」と笑う。
「……よろしくね、千尋!」
*
そんなわけで、私は今朝の話をかいつまんで話した。ついさっきまでのことなのに、もうずっと昔のことのように感じる。
「うーん、そうね。私には二人のどちらが正しいとか、はっきりとは分からないけれど……」
千尋は、スッと私の両手包み込んだ。
「伊東さんは、真彩がどこに居ても、必ず来ると思う」
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