『海の色は何色』10


 *


 千尋の言葉を信じて、私はまっすぐ家に向かった。そして、いつも通りご飯を食べ、テレビを見て、お風呂に入って、本を読んだ。今朝のことなんて、何もなかったかのように。あまりにも、いつも通りすぎて自分でも拍子抜けしたほどだ。


 やっぱり、伊東さんにとって、私は何でもないのかな。


 頭の中で、もう一人の自分がコソコソと囁く。


 それを吹っ切るように時計を見ると、夜の9時を過ぎようとしていた。


 ここの家からは、海の水平線の先っぽならほんの少しだけ見ることができる。運が良いと、父の漁船を見つけることもできるのだ。


 ふと、窓に立てかけている一冊のノートに目をやった。表紙には、拙い字で「こくさいしんごうき」と書いてある。もう中身は全部暗記したので、ずっと放ったらかしだった。懐かしくなって、なんとなく手に取ってみる。



『A(Alfa)…

 このふねはセンスイフをおろしている。ビソクでさけよ』



 漢字が書けなかったのだろう、『潜水夫』がカタカナになっている。それから『微速』も。アルファベットだって、ガタガタの慣れてない字だ。


 でも、こんなに一生懸命書き留めた信号旗たちを、私は一度も見たことがない。父にそれを言ったら、「無くて当然だ」と一言だけ返された。ウチのような小さな漁船には、そんな立派なモノはない。その一点張りだった。


 でも、私は知ってる。


 毎晩帰って来るときに、3回。

 こちらに向かって灯りを、チカ、チカ、チカ、と点滅させること。


 小さい頃、お祭りで迷子になったことがある。しかも方向音痴な私は、どんどん林の深いところに入っていき、ついには暗闇の中でうずくまってしまった。けれどそのとき、奥の方で3回、白い光が点滅した。それを目印に向かうと、懐中電灯を片手にぶら下げた父が困ったように笑って待っていたのだ。


 だから、3回の白い光の点滅は、父のいる証拠。私は毎晩それを見て安心して寝ることができる。




 チカッ、と目の端で白く光った。


 お父さんだ。





 自然と私の表情はほころぶ。


 そして、もう一人の自分が優しく囁いた。



『その笑顔があれば、きっと大丈夫だから。伊東さんのことも、きっと……』






 *


 ガチャリ、と一階から音がした。玄関の真上にある私の部屋がその音に合わして小さく揺れる。


「ただいま」

 父の無愛想な挨拶がくぐもって聞こえた。私は自室のドアを開けて「おかえりなさい」と返す。


 一階で洋画を鑑賞していた母も、いつも通り「おかえり」と声をかける……はずだったが。


「あら、お客さんが」

 その瞬間、ピク、と私の耳が反応した。



 そして……。





「夜分遅くにすみません。はじめまして、伊東和臣です」



 ____伊東和臣です。



 彼の低く且つ心地よい声の余韻が耳の奥に残り、こだまする。


 その声を、待ってた。ずっと、待ってた。




 途端に目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとした。ああ、なんで泣くの? 泣く必要なんて、どこにもないじゃない。むしろ、会えて良かったのだから喜ぶべきだ。今は、笑うところだ。


 私は、父の合図を見て安堵したときと同じように顔をほころばせた。そうすると、本当に気持ちが楽になるから、笑顔のパワーって本当にすごい。



 よし。大丈夫、今なら話せる。今度は伝えられる。真っ正面から向かう。もう目を逸らさない。さあ、どんと来い。私なら、平気だから。


 早速会いに行こう、きっと彼も私のことを待ってるから……そう意気込んで階段からこっそり覗き込んだのもつかの間。次の瞬間には、ハッと息を飲んですぐさま自室へと退散していた。


 というのも、今、自分が置かれている状況に気がついたからだ。



 ____私、髪はボサボサだし、近所の古着屋さんで買ったダサい部屋着姿じゃない! こんなんじゃ、女として色々と失格。お嫁にいけない!



 ポーチからガサゴソとくしを取り出して、髪をとかした。水に濡れた黒髪は何度も絡まっては、ブチブチと抜けていったが、気にしている余裕はない。下の階から「真彩ー? 起きてるー?」という母の声が聞こえる。……ごめん、お願いだからどうか煽らないで!!


 次にロングカーディガンを羽織った。これなら、中の部屋着は見えないしソコソコお洒落っぽくはなる……はず。


 お化粧は元々軽い方だったので、すっぴんでもあまり大差はないだろう。念のため、リップだけは薄く塗った。



 とりあえず最低限の格好にはした。


 気を取り直して、部屋を出ようとすると……。


『真彩? 僕だけど、今、平気?』

「へっ!?」


 ドアノブに手をかけようとしていた私は、思わず引き下がってしまった。その瞬間、ドアの向こうの気配も同じように微かに動いた。


 このドアを一枚挟んだ向こうに、彼がいる。


 ゴクリ、と唾を飲み込んでもう一度ドアノブに手をかけようとした。しかし、『待って!』と制止が入った。


『いや、あの、そのまま聞いて。僕は中には絶対入らないし……その、やましいこととか、何もしないから』


「ふっ」

 思わず笑いが漏れてしまう。都会っ子で女慣れしてそうな伊東さんも、そんなこと気にするんだ。


『な、何がおかしいのさ』

「いや、何でもない、けど……」


 未だに笑い続ける私に、とにかく! と彼は言った。


『真彩の許可なく、変なことはしないから……』


 あれ、いつのまにか呼び捨てされてる。でも、違和感はなかった。元々、それが当たり前だったかのような感じ。


 だから私も、自然と言葉が出た。


「和臣さん。ありがとうございます」


 私はドアを開けた。目の前には、和臣がいる。




 男の人なのだから当たり前だけど、私よりずっと背が高い。スラッと細身だけど、きちんと筋肉質で健康的な体つき。手も大きくて頼り甲斐がある。薄い唇。目は細くて、ほんのちょっとだけツリ目。だけど、笑うと垂れる。まつげは……あ、女の私が嫉妬しそうなくらい長くて多い。だけど、ちゃんと男の人の目つきになるから不思議だ。髪の毛は、少し脱色してあるけど傷んだりはしてない。……喉仏って、私、初めてちゃんと見たかも。お父さんのですらこんなマジマジと見たことなかった。



 …………。



 その沈黙で、私は自分の失態に気づいた。やだ、私ったら……。


「僕の顔、なんか付いてた?」


 やばい、見てたこと気づかれてた!


「わ、わ、わ、ごめんなさいっ!! 私ったら、つい、あ、なんか、その、が、ガン見とかしちゃって……深い意味は、ない、ですからっ!!」


 これじゃあ、墓穴を掘ってるじゃない。そう思ったが、「コホン」とわざとらしく咳払いをしてリセットした。




「中に入ってください。私が許可したので、問題ありませんから」









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