06-2


 一人の老人が和室の奥から庭に目を向けている。その一見無味乾燥むみかんそうに見える場を表現するのなら、『なにもない』があると言えるのかもしれない。


 藺草イグサの香り、障子の隙間から差し込む月明り。そしてその中心に据えられた老人はその空気に相応しい枯れ方をしている。時代に取り残された遺物、もしくはこれから死にゆく残滓なのか――?


 だが穏やかな空気はフスマの向こうから近づいて来る足音に気づき、彼が目を見開いた時点で一転する。


 老いてなお、その瞳には熱があった。喪服にも見える黒い和装の下にある、細い肉体からは想像できない程の苛烈さ。触れ方次第では他人を焼き尽くすのではないかと思わせる迫力。


 もしこの場にこの怪老カイロウ以外の人物が居たのなら、この瞬間室温が数度上がったと感じるであろう。


 フスマの向こうからささやくような声が響く。



「ほう、西村の若造が人を寄越したと?」



 意外にもその声にはハリがある、電話口ならば五十路と通しても違和感はない。その調子にはやさしさすら含まれているのだが、不思議と強い意思が込められている事が伝わって来る。



「あくまでも月の暴挙は開戦ではなく、テロとして処理する……か」



 場の熱が失われる。一瞬前には確かに存在していた暴力的な命の熱が消え死の吐息が流れていく。一秒―― 二秒、フスマの裏で秘書が倒れそうになる直前、怪老カイロウの乾いた唇から音が漏れる。



「まぁ良い」



 秘書は胸をなで下ろした。事実上月からの宣戦布告に等しい攻撃に対し、己の主が穏当な選択を取ったからだ。仮にこの老人が西村事務次官からの話を蹴っても、最終的に日本という国にとって理になるように動かすだろう。


 だがその過程で何人の死者が生まれるのか考えたくはない。国家の奥に潜むこの男は日本という国を愛してはいても、そこに住まう人間は愛していないのだ。


 辛うじて平和を保っているが、実質日本という国に余裕はない。現皇帝が和平交渉の過程で行った技術支援によって戦前の水準を保っているに過ぎないのだ。月面帝国との全面対立を避け現皇帝を取り込む方向なら、まだ死人の数は減る。

 


「武田君と岸本君に話を通しておいてくれ。必要なら私が直接話をしよう」



 首相と与党の重鎮の名を上げながら怪老カイロウは会話を終える。はいと言う返事と共に秘書はフスマの裏から立ち去り、再びこの場を静寂が支配した。



(……レオニードめ、死ぬまで止まらぬか)



 障子の隙間から覗く月に向け、憎悪の視線を怪老は向ける。思い浮かべるは30年前に一度、地上で出会ったロシア人科学者の顔。


 この国に向けて月から拳を振り下ろした男に向けて、怪老は視線の矢を放つ。その一撃が怨敵に刺さることを祈るように――





 メガフロートの国防軍基地指令部。今は日本防衛陸軍の兵士ではなく、同じ顔をした月面帝国のクローン達が闊歩している。


 全員の遺伝子情報が完全に同じ訳ではない、実のところ用途に合わせていくつかパターンに分けられる。しかし同じ基礎知識を脳内に焼きつけられ、パターン化された教育で促成栽培された彼らの表情カオは皆同じ。


 白いパイロットスーツ。正確には宇宙服を兼ねた普段着を纏った人形達が、並ぶ机とモニターの間を行き交い粛々と作業を進める。


 旧式の液晶パネルに月面で生産された演算装置を接続し動作を確認していく。徐々に地球産の管制システムに、月面帝国の有機的な曲線で構築された機械が浸食し、歪な空間が作り上げられていく。


 そんな中、ジャック=マーダンは上皇に対して現状報告を行っていた。

 


「メガフロートの制圧は9割完了ですね、想定外の被害は――」


『ロック=アーガイン…… か』


「ええ、将来に期待出来る男だったんですが」



 実際マーダンは彼が前線指揮官としての才覚が伸びる可能性に期待していた。良くも悪くも拳法家として完結してしまっているユェンや、猪突猛進という言葉が相応しいサミュエルとは違い、ロックは工夫して物をこなす才覚を持っていたのだ。


 自分の感情を優先させていたが、それは自らの中で割り切れないものを持てあましていたからで、その状況でもマスカレイド部隊を指揮し、レーダ施設の破壊を行いながら、敵機の殲滅を行っている。


 もし彼を倒せるほどのエース部隊が存在していなければ、ごく当然の流れとして彼だけの力でメガフロートを制圧出来ていただろう。


 そして、その過程で得た経験が、彼の心を強くしたかもしれない。だがそれも仮にの話。既に彼は死んでしまった、失われた命は戻る事は無い。



『だが、大勢には問題はあるまい。グラ・ヴィルドの復元は?』


「技術者を後2~3人下ろせますかね?」


『……今現在お前の手元に送った100人ですら血を絞り出したに等しいのだ』

  


 その言葉にジャックは共に降下カプセルで降りて来た老人たちの姿を思い出す。四十に足を踏み入れる手前の自分より若い人間は数える程。上皇派と呼ばれる月面帝国過激派が抱える後継者不足。


 だからこそ、彼らはこのタイミングで事を起こすしかなかった。



「米国のテロリスト辺りをシュルバンから回して貰えませんか?」


『無理を言うな。今米国に介入する余裕を与えるのは不味い』



 ですよね、とジャックはため息をつく。シュルバン=ステイレット、ルナティックナンバーセブン。ユェン=ターサンが最強のルナティックセブンとするならば、彼は最悪のルナティックセブン。


 現在進行形で米国内で彼が暗躍しているからこそ、スムーズに事が運んだのだ。


 民族対立、国内格差、月面帝国へのスタンス。ありとあらゆる対立を事実上一人で煽り、自縄自縛の状態を作り上げる。今も彼はホワイトハウスの中で終わらないワルツを演出し続けているのだろう。



「まぁ、元より万全でないのは織り込み済みですから」


『――今貴様の手にある戦力は全て使い潰しても構わん』


「はい、まぁ元よりそのつもりです。ユェン先生も分かっているでしょう」



 ふとジャックの頭に、サムの覚悟についての疑問が浮かぶ。作戦開始前に場合によっては命がけで遂行する必要があると口頭では告げ、彼はそれを受け入れた。だがあの年若い男は月面帝国の絶対性を信じて戦っている気がしてならない。



『三か月、いや半年間。メガフロートを維持出来れば』


「ええ、月面帝国の―― いえ、我々の宿願が果たされることになりますねぇ」



 今頃100人の狂科学者マッドサイエンティスト達はイナーシャルジェネレータに群がり、作業を始めているだろう。彼らは恐らく不眠不休で事を成し、マーダンを含む月面帝国過激派の作戦目標を達成するに違いない。


 常識的に考えればただの狂気、援軍の余地のない籠城作戦。


 無敵の戦力を有していても、核を使うことが許されない場所であっても、無数のレーザー砲塔による絶対の対空網を敷いたとしても―― 彼らが現皇帝の様に対話ではなく武力による実力行使を選んだ時点で、いつか破綻する。


 だがだからこそ。その価値観の差が彼らが勝利する可能性を生み。更に現皇帝を暗殺出来れば更にチャンスが広がっていく。


 今だ向いに座る対局者が見えぬ盤面上、ジャックは上皇の指示の元に駒を進める。





(仕上がりは―― まぁ悪くない)



 ユェン=ターサンは愛機の操縦席で最終チェックを行っていた。本来彼の立場なら整備の人間に投げても問題がない雑事である。


 だが現状、彼が信頼出来るレベルの技術者は全員、このメガフロートを要塞化する為の作業に追われている。クローンの整備兵も最低限のことは出来るのだが、仕上げまでは任せられない。


 彼らは単純作業をこなす分には並の人間より優れるが、閃きやカンという物を持たない以上、思わぬ所で大きな不具合を見逃す可能性がある。


 クローンが人として劣っているという訳ではない。機械に仕様以外のものを求めるのが間違っているという当たり前の理屈。


 だからといって愛機の全てをチェックし直すことは不可能で、無駄な作業である。エラーの有無を流し見た後、確認動作を実施。マスカレイドの隣に鹵獲したバンガードやダークギャロップが積み上げられた格納庫で『バグ・ナグルス』が舞う。


 マスカレイドよりも一回り大きな腕を持つIAが、演武の様な動きを見せる。ほぼその場を動かずに関節の調整を行い、10分程でユェンは愛機の状態が完璧であることを確信した。



(さて、この先どうしたものかな?)



 ユェンは愛機のコックピットで思考を巡らせた。一応この作戦の最高指揮官がジャック=マーダンである事は理解しているし、レオニード上皇の目的が崇高なものであると感じている。


 だが、それ以上に己の武道家としてのサガが戦いを望んでいるのだ。そしてジャックが目的を達成する為に、自分を見せ札として使い倒す気である事も理解していた。



(まぁ、ジャックならば戦果の一つでも上げれば、独断専行を咎めぬだろう)



 それこそ皇帝の命でも刈り取って来れば許されると結論付け、本来の主が消えた格納庫の中ユェンは更に思考を先に進めていく。たった一人の意志で戦局が大きく動こうとしている事を、今は誰も、それを成そうとする本人すら気づいてはいない――

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