きみとの距離 (3)



 それから俺はまた、部屋に引きこもるようになった。

 もう何もしたくなくて、ただ惰性のようにすごしていた。

 ぼんやりした頭で彩人のことを考えていたとき、俺の家にも彩人の痕跡が強く残っているものがあることに気付いた。

 父さんの仕事部屋にあるパソコン。

 のろのろと部屋から這うように出て、あるとき、なぜかそれに手が伸びた。最初は、彩人と二人で遊んだことを思い出したからかもしれない。でも、彩人と遊んでいたころと同じことをやってみても、心はザラザラと渇いてゆくばかりで、ほんのすこしのうるおいすらも感じることはなかった。それどころか、彩人がいなくなってしまったことを余計に意識して苦しくなるだけだった。

 そして次に、彩人が死んだ事件のことを調べてみた。夏休みの真昼間に起きた事件だ。ほかに目撃者がいて、犯人が捕まっていてもおかしくない。そいつは、はたしてどうなったのか、それが無性に気になった。

 事件はすぐに見つかった。犯人は薬物中毒の二十代前半の男で、逮捕されて刑も処されていた。それだけだ。罪に対する罰が下り、事件は終わっていた。

 でも、納得なんかできなかった。

 だって、それでも彩人は帰ってこないじゃないか! いくら犯人が罰を受けたって、あいつが死んだ事実は変わらない! こいつは何なんだよ。何者なんだよ。薬物中毒だって? 薬をキメて頭がおかしくなって、ロクに前も見ずに運転して、彩人はそれに巻きこまれたのか?

 ふざけんな! イカれるならひとりで勝手にイカれてろ! 俺たちまで巻きこむな! 反省してんのか? 子供を轢き殺したことについて罪悪感は抱いてるのか? 償う気はあるのか?

 犯人について父さんに聞いてみたが、何も答えてくれなかった。

 だから俺は、自分で調べた。憎しみが身体を支配し、憎しみに取りつかれて、俺はひたすらにこの犯人のことを調べようとした。どんな性格でどこに住んでるのか。わかったところでどうするのかまでは考えなかったが、そうせずにはいられなかった。そのためなら、汚いことであってもためらいなく覚えた。

 父さんの、仕事で使っているユーザーアカウントと、各所に使っているパスワードのすべてを暴いて、警察のデータを盗み見た。

 小学校からはじめて、もともとパソコンの扱いに慣れていたからというのもあったのだと思う。彩香が言ったとおり、ほかの人より扱いと飲みこみがうまかったのかもしれない。憎悪が身体にまとわりついているあいだだけは、外に出ても平気だった。家を出て書店や図書館で本を片っ端から読みあさり、さまざまなサイトや掲示板に出入りしているうちに、段々とその方法のひとつひとつが掴めてきた。

 もっともそれらの犯罪行為が実際にできるようになったのは一年くらいあとで、事件の真相を知ったのもそのくらいだった。そうして掴んだものは、背筋の震えを止められないほどの、怖気の走る真実だった。犯人はたしかに刑に処され、懲役刑をくらって檻のなかにいる。でもそれは、彩人を轢き殺したのとは別人だった。替え玉、というやつなのだ。

 刑事ドラマでしか見たことがないような出来事が、父さんの周辺で起きていた。暴力団。後嗣。警察。圧力。事件の詳細を見てみると、そんな単語がいくつも出てくる。俺の認識できるちっぽけな『世界』の範疇から外れた世界の出来事。何の力も知恵もない子どもの俺が触れていい問題じゃなかった。

 父さんは、何も答えてくれなかった。もちろん秘匿義務もあっただろうが、きっとそれがなかったとしても父さんは俺に何も話さなかっただろう。こんな醜悪な真実を、俺に話そうとはしなかっただろう。かといって「犯人は逮捕された」と嘘をつきたくもなかった。子どもに対しても絶対に嘘は言わない。優しい嘘さえつかない。そういう人だった。だから何も言えなかった。

 俺にとっては、ただ無力感を突きつけられるだけの、あまりにつらく、許しがたい結末だった。

 ともかくもあの中学一年の夏休み後半は、そうしてパソコンにかじりついてばかりだったということだ。

 だけど、夏休みの最終日。学校がはじまる前日になって突然、彩香から電話がかかってきた。まだスマートフォンではなく携帯を持っていたころ。最初、携帯のディスプレイにうつったその名前が信じられず、機体を手にとることすらためらわれた。怖かったのだ。数週間振りに聞く幼馴染の声が、絶望に染められているのではないかと思って。

 それでもおそるおそる、震える手で機体をとり、通話ボタンを押して電話に出た。

 数瞬の沈黙のあいだ、胃が縮みあがるような感覚に陥りながら、彼女の声を待った。

「……ゆう」

 やがて聞こえた声は、小動物のようにかすれた弱々しいもので、それまでの彩香の声を思い出せばあまりにも痛ましいものだった。俺の心を締めあげるには充分なほどに。それでも、震える声で俺の名前を呼んで、彩香は言った。

「学校、行かない?」

 そうして俺たちは、夏休み終了後。始業式の日から学校へ通った。そんなものどうでもいいと頭の片隅に追いやって存在すら忘れかけていた学校というものに、俺たちは結局一日も休むことなく行ったのだった。彩香は彩人が生きていたころと同じように、皆勤賞を逃さなかった。

 登校の待ちあわせ場所で、彩香は頼りない足取りでやってきた。

 その顔は、かつて彼女の部屋で見たときのような絶望そのものではなかった。

 彩香は、笑っていた。

 とても健気で。とても弱々しく。とてもぎこちない、精一杯の笑顔だった。

 このときの俺の心情がどんなものだったのか、今でもはっきりとはわからない。多少なりとも笑顔になったことの、喜びの気持ち。あまりにも儚い笑顔だったことの、痛ましい気持ち。その両方があったような気がする。

「……ひさしぶり」

 たがいにかすれた声でそれだけを言いあって、俺たちは歩きはじめた。歩いているときも、以前のような明るい会話は当然なく、ほとんど無言に近かった。どうでもいいような中身のないことを沈黙を埋めるために口からすこし出すような、そんな程度だった。

 そして、そのときから誓った。

 どんなに彩香の心が癒えたように見えたとしても、俺のほうからは絶対に彩人のことには触れないと。忘れることなんてできなかったし、忘れるつもりもなかったし、忘れたくなんかなかったけれど。でも……あえてその傷に指を突っこんでほじくり回すようなマネは、俺にはできなかった。彩香の心に余裕ができて、彩香から話を振れるくらいになってからにしようと、そう決めたのだ。

 すべてが嫌になって、すべてがどうでもよくなって、なのにすべてを憎んでいた中学一年生の夏。

 大切な者を失い、大切な人も救えず、そして『世界』からは、色が消えた。



 それから時がたって、今に至る。

 俺は、一日中働いている両親にそれまでのように甘えるのではなく、すこしずつでも家事をできるようにして、二人の負担を減らそうとした。高校生になってからは彩香にすすめられてバイトもして、自分で金を稼いでパソコンも買った。すこしでも立派になりたいと。すこしでも強くなりたいと。いつもそう思っていた。

 彩香は自分で、看護師になるという夢を見つけて歩きだした。まだ彩人に関することは思い出話ですらしたことはないけれど……それでも、また笑ってくれるようになった。

 そのおかげで、俺の『世界』にもすこしずつ彩りがもどってきていた。以前のように幸せいっぱいとは言えなくとも、ささやかな安らぎを取りもどすことができた。

 俺の『世界』に残った、たったひとつの希望。

 彩香を守り、彩香が幸せになるためならどんなことでもしようと思った。

 だけど……いくらそう意気込んだところで、彩香に対してできることは、結局ひとつもなくて……それどころか、現実を生きていくうちに汚い感情ばかりを覚えていくだけで、心はすさんでいくばかりだった。立場がなくなったような気がして、やるせなさや情けなさが日々自分を襲い、倦怠感と無気力感がつねに身にまとうことになった。俺は今も、過去に囚われたまま、同じ場所にいる。


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