きみが望んでいること (2)
茅野明里は、普通の少女だった。ただあたりまえの日常を謳歌することが許されているはずだった平凡な人間。友達が大勢いて。家族がいて。
そして、他人と話すことが大好きだった人懐っこい女の子。人と話し、人と関わり、人と接すること。それが彼女にとっての喜びであり、生きがいでもあった。いろいろな人の価値観の違いが面白いのだと。だから彼女は、一見性格の合わなそうな相手にも明るく笑いかけ、突き放されれば真摯に接し、相手の話をよく聞いていた。それゆえ彼女には、自然と多くの友人ができ、その誰からも信頼されていた。
「おかしくなったのは、お父さんの会社が倒産してからだった」
うつむきながら、明里は無機的に語りはじめた。
「会社が倒産するっていうのはさ、中学生だったあたしにとってはどれだけ重いことなのかイマイチわからなかったんだ。お父さんやお母さんの深刻な様子から、すごく大変なことなんだっていうのはなんとなく読みとれても、どうしても実感することができなくてさ。
それがとんでもないことなんだって理解できるようになったのは、しばらくしてから。変化は家庭のなかですこしずつ起こっていった。
心の余裕をさ、奪っていくんだよ。
お父さんは次の仕事が決まらずに、家に帰ってくるとやつれた顔でため息をつくようになった。お母さんは家計簿を見ながら、カリカリして頭を抱えることが多くなった。
家のなかは不穏で息苦しい空気が漂うようになって……ふたりは、ケンカをはじめるようになった。イラついた声がたがいを責めたてるのが自分の部屋にいても聞こえてきたよ。それは日を増すごとに尖ったものへと変わっていって、ちいさな責めたてあいは怒鳴りあいになっていった。
怒鳴り声は、ほんとうに怖いよ。耳を突き抜けて、あっという間に心臓を握りつぶしてくる。子供には口出しできないことで争ってるふたりを、あたしはどうやって止めたらいいのかわからなかった。夜にその争いがはじまるといつも目が覚めて……そのたび耳を塞いで布団をかぶりなおして、寝られない夜をすごしてた。そんな毎日が続いていくうちに、あたしの身体もおかしくなっていった。食欲がなくなって、たびたび吐き気や貧血さえ起こるようになって、体重もすごい勢いで落ちていった。全身をダルさが襲うようになって、身も心も疲れはててきてるんだってことを、はっきりと自覚するようになった。
もうあの家は、たがいのストレスを吐きだしあうだけのゴミ捨て場になってた。ふたりの争いは日がたつごとにさらに過激になっていって、ついにほんとうにヤバいって思ったときがあった。
そう。まさにあの晩。いろんな物が割れて壊れる音が何度も響いて、下手したらほんとうにどちらかがどちらかを殺してしまいかねないとさえ思った。
だからあたしも無我夢中になって、布団から飛びだしてふたりの争いを止めようとしたんだよ?
だけど……そんなものは無駄に終わった。あたしは何かを言う暇もなく怒鳴りつけられて……しまいには、皿で頭をぶん殴られた。破片と血が飛んで、さすがに慌てたふたりが救急車を呼んで、あたしは入院することになった。
でも……それだけじゃ終わらなかった。そのまま病気さえも発症したの。ううん、正確には違う。もともとかかっていた病気がこのときに見つかったってことだった。それもこの歳ではまずならないような病気が、かなりの進行を見せてた。食欲がなくなったり、吐き気や貧血を起こすのはその兆候だったって。……今思えば、これもどっかの幽霊の仕業だったのかもね。悪意があるのかないのか知らないけど、あたしの身体のなかをいじくって病気を誘発させたのかな。
それでも、手術をすればなんとか治せるもののはずだった。けれど……大きな怪我をして間もない状態だったから、身体そのものが手術に耐えられない可能性がきわめて高かった。救急車で運ばれて、入院することになって、そのまま病で死を待つだけの身体になった。
……そのときの担当の看護師が、あんただったよね」
光の無い目で、明里は優香里さんをチラリと見る。
優香里さんは痛みをこらえるような強張った顔で、小さくうなずいた。
「それから病院のベッドで、空虚な日々をすごした。ただ死んでないから生きているだけの日々。もう動くことすら億劫になって、寝てるだけしかない生活になって。余命を宣告されて、どんな気分だったか。
人生ってものが、バカらしくなった。
人生って何。なんのために生きてたの。そこには、尊さとか大切さとか、そんなものはこれっぽっちもなかった。あったのはただ、幸せから突きおとされる悲惨な末路だけだった。
いろいろ考えたよ。生きる意味とか、生きる希望とか、生きる楽しみとか、生きる喜びとか。いろいろ考えてけっきょく、答えは欠片も見い出せなかった。
……そう。答えは出なかった。もう生きる気力は完全に消えて、かわりにあったのは、ただ世界のすべてを憎む心だった。
病室の窓から見える、はしゃぐ子供たち。それを見守る両親。行きかう人々。そしてあたしの世話をする医師も。あたしの担当の看護師だっていうあんたも。みんな同じ生き物みたいに笑ってるように見えた」
暗い瞳に睨まれた優香里さんは、顔向けするのが申し訳ないように目をそらした。
明里は拳をギュッと握り、無機的に思えた口調に感情が混じりはじめた。
「……何で笑ってるの? あたしは身も心も焼かれてこんなにも苦しんでるのに、どうしてほかの人は笑ってるの? 未来を疑わないで。将来を夢見て。希望を持って。そんなことをあの閑散とした病室で考えて、どうしてあたしだけがって、毎日思った。だからいつも、自分のまわりに近づく人を避けてた。
喧嘩のとばっちりをあたしに喰らわせた、父親と母親とかいうあのふたりのことも。あたしがベッドで寝たきりになってから急にめそめそと泣きはじめたけど、いまさらそんなことしたってもう遅いんだよ。あんたたちのせいで殺されるようなものだってのに、何をつらそうな顔してるわけ? つらいのはこっちだよ。そんな顔するくらいなら最初から殴ったりしないでよ! 今まで仲良くしてたのに、それをブチ壊すように罵りあったりしないでよっ! 娘のあたしの前で憎みあったりなんかしないでよッ!
医師も看護師も、みんなうっとうしい。一体なんなの? どうしてそこで生きてるの? どうしてあたしっていう死を待つしかない人間にずかずかと踏みこんでこようとするの? どんな気持ちかも知らないくせに。
――どうせ、生きていられるくせに。
そう考えたとき、痛いほどに理解したよ。
死にゆく者と、死を見送る者の、絶対の壁を。そこにはどうしようもなく高い、途方もないものがそびえ立っていた。
それはまさに、人生の違いだって、そう思った。死ぬ者と生きる者の、人生の違い。
そしてある日、異様なほどの痛みが全身を食い破るように襲って、そして成すすべもなく……あたしは死んだ」
そうして明里は、幽霊として生まれ変わったのだ。
「どうしてあたしは死ななきゃいけなかったの? あたしが何をしたの? 何もしてない。そんな、希望も将来もぜんぶ奪われるほどのことなんてしてない。幸せに生きるのがそんなにいけないこと? 日々を楽しく過ごすのがそんなに許されないこと? だとしたら、人は何を目指して生きればいいの? 絶望のなかで生きて死んだあたしこそが、人のあるべき姿だっていうのっ……?」
気づけば……明里は、涙をぽろぽろとこぼしていた。
幽霊になってからの明里のやってきたことは決して褒められたものじゃない。だけど、だからって全否定できるものなのだろうか。
俺にはできない。明里と同じことをしてきて、明里に人殺しを命じた自分には。
明里の壊れた性格と価値観は、何によって作られた? その理不尽な運命に巻き込まれてしまった経験があったからこそだ。もしも父親の会社が倒産なんかせず、明里が病に犯されなければ、明里の性格には大きな違いが出ただろう。すべてを環境や経験のせいにはできないかもしれない。だけど、すべて明里が悪かったなんて俺には思えない。
明里は多くの人を殺した加害者だ。でも、理不尽な世界に心も身体も殺された被害者でもある。
そして明里は、死後も世界を憎みつづけた。人を憎みつづけた。自分を差しおいてのうのうと笑って生きているすべての人が許せなくて。
そして世界に対し、復讐という名の報復をはじめた。数年にわたり人を殺しつづけ、やがて明里にとって殺人は特別なことではなくなってしまった。人を無残に殺すことも、心霊スポットでほんのすこしおどろかす程度のことも大差はなくなっていた。やるとおもしろい。ただそれだけになった。惨たらしい死を与えることさえ、もはやイタズラの域を超えなくなった。
しかし、ついにはそうやって人を苦しめることも明里には楽しめなくなった。虚しさだけを感じるようになり、それでも憎しみだけは呪いのように消えることなく胸に残りつづけた。
そんな状態でどうしていいかわからなくなった明里はある日、自分と同じように理不尽を憎む人間を見つけた。うつむき、恨み言をつぶやき、泣き崩れてしまう。やがてはすべてに疲れはててしまったような顔をする、そんな人たちを。
思いついたのは、そうした人たちと関わってみることだった。生前のことを詮索されないために、死神という超常の存在を騙って、明里はささやくのだ。
自分を追いこんだやつに復讐をしてみないか。死神の力があればそれができる。
そんな言葉とともに明里は理不尽に苦しめられている人たちと接し、恨みの対象となる人間を痛めつけ、殺してきた。復讐を終えたらまた次の人を見つけ、それが終わればまた次のところへ。願いを聞き、実際にやり遂げて感謝をされる。ただ殺すのではなく、人を助けるという意味を持って殺す。そうすることで快感を取りもどすことができた。それは、人を殺すということに喜びを感じるための手段だった。
そうして明里はさまざまなところを飛びまわり、長いときを経て自分がかつて住んでいたこの町へもどり、俺と出会ったのだ。
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