五章 きみが望んでいること
きみが望んでいること (1)
きっと最初は、いつもどおり俺の部屋に帰ってきたのだろう。そして俺が部屋どころか家のどこにもいないのを見て、きっとここに来たのだ。
今の俺と彩香を見て、すべてを察したのだろう。俺たちの前に現れた明里は、耐えがたい怒りと苦しみをない
温度を奪い去る絶対零度の瞳に見据えられ、彩香がかすかに肩を震わせて怯えた。
「明里」
それでも俺は、はっきりと言った。
「俺はもう、人殺しはしない」
その瞬間、静かだった明里の目はギラつき、喉が千切れるような叫びがとどろいた。
「ふざけないでッ!!」
その叫びに、彩香がビクッと震えた。その振動が抱きしめている俺にも伝わり、うしろのクローゼットをガタリと揺らす。
嫌な予感がして上を見た。
クローゼットの上の置時計がぐらりと揺らぎ、それが落ち――
「やめなさい」
――なかった。凛と響くような声とともに揺れは小さくなり、やがて置時計はすこし位置がずれただけで、そこにあるままだった。
姿を現した天使は、置時計へ向けていた手を降ろすと、明里を見据えた。
「あなたは、今さっきまで人を殺していたことで力を使いすぎてる。私がいる限り、二人に手は出させないわ」
「っっ……! なんなのよなんなのよなんなのよ邪魔ばっかりしてッ!! 優にまでちょっかいかけて一体何がしたいのよッッ!!」
「あなたを止めたいのよ」
それは毅然とした、曲がることのないまっすぐな意思だった。
「止める……?」
「そう。彩香が優くんにしたかったように、私もあなたに、世界への復讐をやめてほしいと思っているだけ」
天使の言葉は揺るぎなかった。強い意志でもって、真正面から相手に立ち向かう。それは、俺と屋上で対面したときの彩香を思い出させた。
しかし天使は、なぜか俺に顔を向けた。
「そのまえに確認したいことがあるのだけど……ねぇ優くん。きみは私を最初に見たとき、そしてさっききみの部屋で会ったとき、私のことを『天使』と呼んだわね? そしておそらく、その子のことを『死神』だと認識している。ずっと引っかかっていたんだけれど、きみは私たちのことを異世界の存在だとでも思っているのかしら?」
「えっ……?」
「――っ!」
明里が天使をキッと睨む。
不意に話を振られて混乱した。
異世界の存在だとでも思っているのか? 思っている。だって明里がそう言っていた。
死神と天使。人間ではないもの。そうじゃないのか。
「やめてっ!」
明里が叫ぶ。しかし天使は、それを無視して話しつづける。
「じゃあ、その死神や天使がどうやって生まれてきたのか、考えたことはある?」
知らない。考えたことなんかない。
「黙りなさいよッ!」
「なら、どうして死神や天使が、きみたち人間と同じ外見で、同じ言葉を話すと思う?」
「黙れって言ってんでしょうッッ!?」
急な話についていけず混乱している頭では、まだ把握できない。よくわからない。
「答えは簡単よ」
そして天使は、真実を告げた。
「死神や天使は、きみと同じ、もともとこの世界に生きていた人間だからよ」
「ッ……!」
明里が歯を食いしばるのが聞こえた。
俺はその言葉に耳を疑う。
「私たちは死んで、そして未練を抱えたものだけが、こうして不思議な力を手にした存在として生まれ変わる。言ってしまえば、幽霊なのよ」
幽霊。最初に明里と出会ったとき、死神という存在をたしかにそれと同じようなものだと思った。心霊写真にうつり、心霊スポットで人をおどろかせる。
ただ違うのは、不思議な力を持っているということだけ。
逆だったんだ。不思議な力を持っているから、幽霊と違うんじゃない。幽霊という存在が、ただ不思議な力を持っているだけ。もっと単純で、簡単な話だったのだ。
「そもそも、『死神』と対立する存在とは『天使』ではないわ。『死神』と対立するのはただの『神』。命を奪うのが『死神』で、命を生み出すのが『神』と考えれば分かりやすいのではないかしら。そして『天使』の反対は『悪魔』。オカルトにすこしでも詳しい人ならすぐに分かったんじゃないかしら」
そうか。明里が『死神』の対極の存在として『天使』の名前を出したときにはもう、俺は気付けても良かったのだ。それはオカルトに詳しくない明里の、嘘の『設定』にすぎなかったのだから。
俺は今一度、真実を脳に焼きつける。
――死神や天使と呼ばれたものは、この世界に生きていた人間だった。
やはりそれは、俺にとって空いた口が塞がらないほどの衝撃だった。
彩香は不思議そうな、戸惑いを含んだ顔をしていた。でもそれは、俺のとは真逆の戸惑いなのだろう。
「彩香は、知ってたのか……?」
「私は、最初からそう聞いてたから……。だから優が、
優香里さん。それが、この人の名前なのだろう。
俺はとんだ勘違いをしていた……いや、させられていたのだ。
異世界の存在が、あたりまえのように人間の外見で、人間の言葉を話している。そんな漫画やアニメのような価値観が先走って疑問を打ち消していた。でもそうだ。人間の言葉を話し、人間と同じ外見で、人間と同じ感情を持っている。そんなの、人間以外にありえないじゃないか。最初に「死神」と告げられ、浮遊をはじめとしたその力を見せつけられて、あたかも別次元、別世界の存在のように感じていた。だけど実際は違う。目のまえにいるこの人も、今まで自分の近くにいた明里も、かつてこの世界にいて、そして死んだ人物。
最初から疑問ではあった。この二人がどうして、異形の存在としては不似合いに見えるパジャマなんてものを着ているのか。髪が乱雑で、清潔感がないのか。その腕や足があまりに細く、血色のない白い肌をしているのか。だけど――これを単純なパジャマとしてではなく病衣として着ているのだとしたら。その姿は、長期入院している病人そのものじゃないか。
天使――優香里さんは溜め息をひとつ吐き、口を重そうに動かす。
「そうね……たしかに、おおまかに言えば私たちは、二種類に分けられるのかもしれない。死したあとも世界を憎みつづけ人々に危害を加えようとする者。それから、死してからはこの力を使い人々を助けようとする者。もともと私たちはまったく同じ存在だけれど、その力の使いかたが個々によって正反対になる。そういう意味でなら、たしかにその子は死神で、私は――そう名乗るのはおこがましいけど――天使ということになるんでしょうね」
死神と天使は真逆の力を持っていると、明里は言っていた。でもそうじゃない。
どちらも同じ『促進』という力を持っていて、それをどう使うか……どの方向に促すかの違いだけだったのだ。
明里は拳をぐっと握り、諦めの表情でうつむく。
そんな明里を見て、優香里さんは続けた。
「優くん。私もその子も、幽霊としてここにいる。今は死んでしまっているけれど、生きていたときというのがちゃんとあるのよ。今から、すこしだけそれを話すわ」
そして、聞く。
幽霊、茅野明里の過去――生前を。
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