きみとの距離 (7)



 家を飛び出すと、視界がまたぐらりと揺らいだ。身体の熱さが脳を焼き、どこを走っているのかもわからなくなりそうだった。荒く不規則な呼吸をするたび、毒を吸ったように身体が悲鳴をあげ、吐き気が胸の奥から込みあげて倒れそうになる。

 まるで世界が、俺が彩香のもとへ行くのを拒んでいるかのようだった。

 でも、それを全部ねじ伏せて、ただひたすらに走った。

 四年前にもどったように、うつる景色がみんな灰色に見える。もう俺の『世界』はこんなに何も色あせていたというのに、何で今この瞬間まで気付かなかったんだろう。

 そしてこんな景色を、彩香も今見ているんだ。

 ほこりの匂いのする絶望そのものの、真っ暗なあの部屋で。

 気付けば、彩香の家のインターホンを指で叩いていた。

 彩香のお母さんが出てくる。四年前と同じように、ひどく疲れている俺を心配しているようだった。

 その顔を見た瞬間、目の奥が熱くなって、地面に頭をこすりつけて謝りたくなった。ごめんなさい。彩香をあんなにしたのは俺のせいなんです。ぜんぶぜんぶ俺のせいなんです。

「彩香に会わせてくださいッ!」

 なのに、俺は下を向いたまま顔も見ずにそれしか言えなかった。礼儀もなにもあったもんじゃない。俺の様子を見て、彩香が傷ついているのが誰のせいなのかを察して、文句や説教どころか罵倒して追いかえしたっておかしくない。

 だけど、彩香のお母さんはそうしなかった。小さく息を飲んだあと、道を開けるように横にずれただけだった。

 そうしてくれたことに、また泣きそうになるほど感謝の念がおしよせるが、それを口から出すことはできなかった。

 俺は無心で家のなかへ飛びこみ、靴を脱いで階段を駆けあがる。ドアの前に立つと、心臓がざわついて、足は止まってしまった。すると、途端に不安が押しよせ、後悔がすべてを飲みこむように襲いかかってくる。

 来てしまった。来なければよかった。

 そんな思いばかりが頭の内を支配し、息が詰まりそうになる。それでも、必死に心を落ちつかせ、胸の震えを抑えながら、ゆっくりとノックをした。

「彩香……入るぞ?」

 返事はなかったけれど、中にいることだけはなんとなくわかった。あれだけ慌ただしく家に入ったんだ。向こうだって気付いてる。

 ドアを開けると……それは、あのときの再現のようだった。

 締めきったカーテンに、電気もついていない真っ暗な部屋。枕を抱いて、泣き腫らした顔で俺を見る彩香。その暗い色に染まった目を見て、逃げだしたくなる。

 嫌な既視感と罪悪感に囚われ、その居心地の悪さから吐き気と気持ち悪さを覚える。そして次第に、圧倒的な絶望感に身を包まれる。

「…………」

 声が、出ない。四年前と同じように、何か言おうとしても、吐息しか出てこない。言葉というものが消えてなくなったように、意味を持つ単語が喉から出ない。時が流れるだけの真っ暗な沈黙だけが過ぎ、死んでしまいたくなるような気持ちが心臓を鷲掴みにする。

 嫌な汗が噴き出て、呼吸さえ苦しくなって頭が朦朧としかけたとき、か弱い、死にかけた羽虫のような声が聞こえた。

「どうして……?」

 彩香の声だった。俺がなぜここにいるのか、ということではなかった。

「どうして、そんなことするの……?」

 それは、あのときの屋上と同じ問いだった。

 彩香の傷を癒し、安心させなければいけないとはわかっている。でも今は、本心を言うべきなんだ。屋上のときのように捨て台詞を吐いて逃げるんじゃなくて、真正面から向きあって、本心を伝えないと。

「……俺は」

 ようやく、声が出た。すこしずつ頭に浮かぶ言葉を、ポツポツと――想いを、伝える。

「俺は……世界が憎い」

「どうして……?」

「何の罪もないあいつを殺した」

「それが……どうして人を殺すことにつながるの?」

「……あんなやつらさえ」

 苦渋と憎しみがあふれそうになりながら、俺は言う。

「あんなやつらさえいなければ……彩人が死ぬこともなかったかもしれない」

 あんなやつら。車で信号を無視して、青信号を渡る人間を容赦なく殺すやつら。薬物運転。飲酒運転。強盗。窃盗。放火。詐欺。虐待。強姦。快楽殺人。誘拐殺人。猟奇殺人。無差別殺人。何の罪もない人を、理不尽に殺すすべてが、憎い。

「……それなら、警察とか裁判所とか、しかるべきところが取り締まってくれるよ」

「警察や裁判だけじゃ、すべては取り締まれない。罪を犯してもすぐに釈放されるやつ。罰金だけ払ってその後ものうのうと生きてるやつ。そのあとも小さな悪事をくりかえすやつ。そしてまた犯罪に走って、それでも巧みに罪を軽くして、数年でまた社会に出てくるようなやつだっているっ。共犯者も似たようなやつばっかりだ! 他人に罪を被せて、自分だけは助かろうとする……。そうして更生することなくのさばっているやつが、世のなかには大勢いるんだっ……! それ以前に、自分勝手な理由で善良な人を不幸にしている時点で、そんなやつらに生きてる価値なんかないッ!」

「…………」

 そこまでを一気に言うと、自分の息が苦しくなった。喋りすぎたからなのか。この空間にいるせいなのか、その両方なのかは、判断がつかなかった。

「……なら、優が殺した人には、全員に罪があるって、確実に言えるの?」

 鋭い刃を首筋に当てがうような指摘に、息が詰まりそうになる。

 彩香は表情を変えず、虚ろな顔と目のままで俺を見つめてくる。

 だけど、そんなものでは動じない。

「……言えるさ。事件を見て、犯人の動機と性格を見て、選別は慎重にやったんだ」

「ほんとうに、まったくないって言い切れるの? それを百パーセント、正確に判断する方法は、私たちにはないんだよ? あの人から聞いた。それだってデータの文面を元にした、優の視点から見た推測でしかないんでしょう? 実際に会ったこともないのに、それで一体どれだけのことがわかるの?」

 刃が、首へ食いこんでくる。反論しようと口を開こうとしたが、彩香の言葉は続いた。

「更生する余地はなかったって言えるの? 心の底では罪悪感に囚われている人だっていたかもしれないんだよ? 後悔して、反省している人はまったくいなかったって、ほんとうに言い切れるの?」

「俺は、データをよく見て、正確にっ……」

「人を偶然を装って殺したとき、まわりには誰もいなかったの? ひょっとしたら、優が殺したその人の死を見て、心に深い傷を負う人もいるんじゃないの? 偶然に見た他人の死の瞬間が怖くて、忘れられなくて、いつまでも恐怖に囚われてしまう人はいるんじゃないの? その人に罪はあったの?」

「それはっ……」

「それに、被害者の友達は? 恋人は? 家族は? 優が殺した人たちにも、大切な人がいたんじゃないの?」

 今度こそ、その刃は俺の首を切り裂いた。

 さっき見たニュースが蘇る。家族が死んだショックで頭がおかしくなり、一家心中。

 俺が、殺したことで。

 ついに、足が震えてその場から動けなくなった。立っていることすらおぼつかない。

 彩香は枕を置いてベッドから立ち上がり、そんな俺を非力な腕でクローゼットに押しつけ、見上げてくる。まっすぐに、見つめてくる。

「その人たちには、それこそなんの罪もないんだよ? それなのに、自分の大切な人が死んでしまって……。それこそ、理不尽そのものなんじゃないの? それとも、罪を犯した人の身近な人というだけで、同罪だっていうの? 自業自得だっていうの?

 罪を犯した人のすべてが悪人だとは限らない。そこには誤解や、押しつけが混じっているかもしれない。たとえ誰かから見て絶対悪だったとしても、べつの誰かから見れば優しい人であるかもしれない。人を殺すことは、その人を想っている人たちのことも、みんなみんな悲しませることになる。それに、ねぇ考えて……。

 自分の大切な人が罪を犯したと知ったとき、身近な人は、それだけでどんな気持ちになると思う?」

 その言葉は、違う刃となって俺に突き刺さった。

 俺が罪を犯して、彩香はどんな気持ちだった? 少なくとも、そこには喜びとか幸福感なんてものは欠片だってなかっただろう。罪を犯した人間の身近にいる人までが罪なはずはない。それはちゃんと彩香もわかってる。

 だけど、それでも俺を責めたくなくて。誰のせいにもしたくなくて。誰も憎みたくなくて。

 だから彩香は、自分を責めた。俺がこんな性格になったのは、彩人が死んですぐに立ち直れなかった自分のせいだと。

「それだけでもすごくつらいのに、追い討ちをかけるように罪人になったその人が死んでしまったりなんかしたら、どれほどつらいかわからない……」

 彩香は、俺が殺した犯罪者の家族や身近な人間に、自分を重ねた。そして仮定として、多くの罪を犯した末に俺が死んだら、彩香はどうなるだろう。

 それに、俺が逆の立場ならどうだ? 彩香が復讐に身を焦がし、死神を使って世のなかの罪人を殺し尽くしていったとしたら。世界を憎む俺は果たして便乗したか?

 そんなわけ、あるか。彩香が人殺しに手を染めたなんて知ってしまったら、胸が裂けてしまう。

 そうして、その大量殺戮をした末に彩香が死んだとしたら、俺はどう思うだろう。自業自得だなんて思えるわけがない。人を殺してきたから彩香も死んで当然だなんて、思えるわけがない。どうして彩香のことを理解することができなかったのかと、そんな後悔だけを一生引きずっていくに違いない。それは、想像もできない絶望のなかの絶望だ。

 そしてそんな出来事が、俺が殺した人や、その身近な人たちのあいだにもあったかもしれないのだ。

 彩香は俺にすがりつき、頭を押しつけて、震えながら言う。

「ねぇおねがい、もう人殺しなんてやめて……。それによって傷つく人は、たくさんいるんだよ……?」

 その言葉を聞いて、膝が崩れおちた。

 自分のやってきたことが、何の救いももたらさないことを悟ってしまったから。

 たしかに俺が犯罪者達を殺すことで、本来理不尽に被害を受けるはずだった人はそれを免れたかもしれない。

 だけどかわりに、ほかの人が傷つくことになっていた。何の罪もない、俺が殺した人の家族や身近な人までもが。

 それはつまり、傷つく人間がべつの人になっただけだ。決してその悲しみの数を減らせたわけでも、理不尽に苦しむ人の数を減らせたわけでもない。

 俺がやってきたことは。

 ただの、人殺しだ。

「……ごめん」

 俺はこれまで、何も言わなかった。彩人が死んでから、今までずっと。

 でも、それが余計に彩香を傷つけていたんだ。

 こんな世界は嫌だと。つらいことばかりで、幸せに生きていく方法がわからないと。

 そんな弱音を吐くことも、ときには必要だったのかもしれない。

 何も隠さず、ただその場の感情をあるがままに口にしていた、子供のときのように。

 すがる彩香の身体を、今度こそ俺は強く抱きしめた。

 細くてやわらかい、華奢な身体。触れていると、自分よりもずっと頼りないものだとわかる。こんなに弱々しいものに、ずっと支えられていたんだ。

「俺が、悪かった……」

 思いをぶつけあって、ケンカして、仲直りする。

 そんなあたりまえのことを、彩人が死んでから俺たちは、はじめてしたような気がする。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る