きみとの距離 (6)
「…………」
ぐちゃぐちゃにほつれた思考が、ひとつにまとまる。これから自分がすべきことがわかり、頭のなかがクリアになった。明里に見せるためにできるだけ早く、明日殺すぶんの犯罪者のリストを作らなければ。
身体を起こし、ベッドから降りてパソコンを起動する。そして立ち上げのあいだにスマートフォンで新しいニュースをチェックする。新しい犯罪者でも前科がないために実刑に至らず、すぐに釈放されるものもいる。とくに未成年はそうだ。身勝手な理由で罪を犯しておきながら、何の罰も受けず反省もしないやつが多い。そういうやつらもニュースと一緒に警察のデータと照らしあわせてターゲットにするかを決めるのだ。
「え……」
手が止まった。妙なものが目に入ったからだ。
【無理心中。娘を失った母の嘆き】
内容は、タイトルどおりだ。娘が死んだ悲しみのあまりにその母親が狂い、夫と長男を巻きぞえに心中を図った。しかし母親は、心中に失敗した。家族はみんな殺したが、自分を殺すことにだけ失敗したのだ。そして目を釘づけにされたのは、そこに載っている加害者と被害者の名前。
加害者の名前は、
被害者は、華秧
華秧さやかの、家族だった。
「――ッ!?」
ドクンと、心臓が大きく跳ねた。
この人たちに、罪はあったか? この人たちは、ある日突然に家族を奪われた被害者だ。そしてその家族は……高校三年生の少女だったその家族は、死神の力を使って俺が殺した。それによって、母親の心は狂い、父親と長男は無理心中の巻きぞえにされた。
ガツンと頭を殴られたような気がし、目眩がして足元がふらついた。脳みそがべこりとへこんでいるような錯覚に陥り、頭のなかが荒れ狂う混乱と恐怖でいっぱいになる。手が動かない。吐き気がする。とてもじゃないが、これから殺していく犯罪者を決めるなんてできない。
「柘植崎優くん」
そのとき、聞いたことのある声に名前を呼ばれて振り返り、息が止まった。
「天使……」
そこには、一週間前の屋上で彩香と一緒にいた天使がいた。あのときと同じ、長い髪を乱雑に降ろし、人間味のない細くて真っ白な身体に、落ち着いた水色の無地のパジャマを身につけて浮いている。俺のつぶやきを聞くと「天使……?」と、なぜか怪訝そうな顔をしてつぶやいた。
どうしてそんな反応をするのかがわからなかったが、脳みそが使いものにならなくなってる俺にそんなことを考えている余裕はなかった。
「な、なにしにきたんだ……。明里は今はここにはいないぞ……」
「そうね。でも私がいま用があるのは、きみのほうなのよ」
「え……」
俺? 視界がぐらぐらとブレて、音もぐわんぐわんと反響していて、考える力が失われているのが自分でもわかる。天使の意図も目的も、まるで見当がつかなかった。
「用って、なんだ……。死神じゃないあんたに、俺に手出しはできないだろう……」
「彩香の話よ」
不意打ちで、ナイフで胸を刺されたような痛みが身体を貫いた。続けられた言葉もまた、冷酷な追い討ちだった。
「彩香は今、どうしてると思う?」
ドクンと、さらに心臓が大きな音を立てる。それはあの灰色の夏休みに、自分の部屋にいることすら耐えられなくなって彩香の部屋へ向かおうとしたときに聞こえた自分の言葉と、まったく同じだった。
彩香は今、どうしてる?
「一週間前、学校の屋上からおぼつかない足どりで家に帰って、あの子がどれほど泣いたかわかる? 目一杯泣きたいのに、両親に聞かれないよう必死に声を殺して。それでも漏れる声を抑えられなくて、顔を埋めたベッドのシーツをぐしゃぐしゃになるほど強く握りしめて。彩香はあのときから、部屋から出ない日々が続いているわ。涙さえ枯らして、真っ暗な部屋のなかでずっと枕を抱いてる」
「そ、それは、でも……」
「あそこまで落ちこんでいるのは、彼女の弟が亡くなったとき以来よ」
思考が止まる。まったく予想もしていなかった角度からの言葉に、耳を疑った。
「何で、そのこと……」
「私は四年前のあの日、あの場所にいて見ていたのよ。楽しそうに過ごすきみと彩香と……そして彩人くんの三人を」
愕然とする。そんな偶然があるものなのか。
だけど俺は、屋上で彩香と対峙したときの明里の『よく似てるもんね』という言葉を思い出した。
「あの場に居合わせたのは、ほんとうに偶然だった。でも私には、通りすがりに一瞬見かけただけでも、彩香から目が離せなかった理由があった」
「明里と……似ていたから?」
「そう。私とあの子がどういう関係だったのかの説明は、今は
うつむき歯を噛みしめ、涙をこぼしそうにさえ見えるその顔。それは、俺がはじめて見た天使の強い感情だった。
「そして私はあの日以来、たびたび彩香の様子を見にいくようになった……。人生に絶望して、自殺でもしてしまわないかが心配だった……。でもあの子は……何もしなかった。自殺とかなんとか、あの子は何かをする気力すらもなかったのよ……。それは、きみなら知ってるわよね?」
心臓を、キツく絞られるような感覚に陥る。あの絶望そのものの空間を思い出すたび、息が苦しくなる。
「だから私はある日、あの子の前に姿を現したのよ。私のような存在を知って、すこしでも立ちなおることができたらと思って。自分の行動に自信が持てるようになるならと思って。結果として、あの子は看護師になるという夢を持ち、前へ歩きだすことができたわ」
俺は自分が明里と会ったのと同様に、彩香と天使が出会ったのもまたつい最近のことなのだと思いこんでいた。そして彩香が立ちなおれたのも、すべて彩香の意志の強さによるものだと。でも、そうじゃなかったんだ。
『学校、行かない?』と言ったあの日。あのときにはすでに、彩香は天使と出会っていたんだ。彩香にとっては天使の存在は大きかっただろう。何もできなかった俺とは違い、人を救うことのできる存在というのは、他人の不幸を何より恐れる彩香にとっては、まさしく希望だったに違いない。
でも。
「でも」
自分の心の声と、天使の声が重なったような気がした。
「あの子はまた、もどってしまった」
奈落の底へ突きおとされたような気がした。だって、その原因を作ってしまったのは。
「誰よりも救いたいと思っていた人が取りかえしのつかない凶行に走ってしまったせいで自分の無力さを痛感し、あの子はまた心を痛めて塞ぎこんだ。決してあの子自身は悪くないのに、それでも責任を負わずにはいられない性格であることをわかっているはずなのに、あの子の幼馴染は間違った道を行き、何の罪もないあの子をかつてないほどに苦しめているのよ」
瞳孔が震え、呼吸が安定しなくなり、脈がドクドクと暴れる。だって、彩香を追いつめてしまったのは――。
その先を考えないように、俺はただとにかく、浮かんだ言葉を懸命に吐きだした。
「俺は……俺は間違ってない! 何の罪もない人を救うために犯罪者を殺してるだけだ!」
「いいえ、それはただの人殺しだわ」
直接的な言葉が、さらに胸を強く突き刺した。でも逆にそれが、俺の神経を逆なでした。
「ち、違うっ! 俺は善良な人なんかひとりだって殺しちゃいない! 生きてちゃいけないクズだけを殺して、ほかの人が傷つかないように――!」
「――いま彩香を傷つけているじゃないッ!」
見苦しい言いわけで身を包む俺を真正面から殴りつける、何よりも痛い言葉だった。
「それはっ……!」
「ほかの人が傷つかないように? 笑わせないでッ! もっとも身近な人をいちばん傷つけておいて、何がほかの人のためによ! きみにとっては、顔も知らない善良な人々のほうが彩香よりも大事だってことなの!?」
「じゃあどうしろってんだよッ!」
「彩香のところへ行きなさいっ!!」
俺の喚く言葉なんて、天使はモノともしなかった。物静かそうに見える外見からは考えられないほどに、圧倒的で有無を言わせない強さだった。
「自分の想いを彼女に正面からぶつけなさい! 捨てゼリフを吐いて逃げるなんてことしないで、言い争ってでも彼女と向きあいなさい! どうせわかりあえないと逃げて、自分の気持ちも伝えないで彼女を遠ざけるのはやめなさい!
きみが凶行に走ったこともそうだけれど! あの子が何より傷ついているのはね! きみが何も言わなかったからよ!
きみのつらいことも苦しいことも、何もかも受け止めたいと思っていたのに! 知りたいと思っていたのに! きみは何も言わなかった! 自分の大切な人が、自分の知らないあいだにべつの世界へ行ってしまったという絶望が、今のあの子を苛んでいるのよっ!!」
言葉のすべてが鋭利な刃となり、グサグサと身を突き刺していく。その痛みに耐えられなくなりそうで、イスに倒れこんで頭を抱えた。でも、そうやって動こうとしない俺に向かって、天使は容赦なく言葉をあびせてくる。
「怖いの!?」
そんなこと許さないと、言われている気がした。
脳裏に四年前の出来事が嵐のように流れていき、感情の波が荒れ狂って止まらなかった。それに耐えられなくて、たまらなくなって、俺はまた叫び散らした。
「あぁ怖いさ! 会いにいって、またあのときみたいな彩香を見るのが! 会ったって、俺が彩香に対して何もできないって事実を突きつけられるのが!」
真っ暗な部屋のなかで枕を抱いて、光のない瞳で俺を見つめる彩香を思い出す。
「だって……だってあのときも、何もできなかった! ただ塞ぎこむだけで、実際に会っても彩香の心は癒せなかった! 行ったって何ができるってんだよっ!? 俺が彩香にできることなんて、あのとき以上にないじゃないかッ!」
「なら今のままじゃ、きみもあの子も、一生このままよ!」
「会ったって俺にはなんもできねぇよ! 慰めろってのか!? 謝れってのか!? 傷つけた本人が、いまさらどのツラ下げて会えるって――!」
「あの子がまたすべてを塞ぎこんで生きていくことになるのよ! やっぱり自分には何もできないんだって! いいえ、それどころか、自分の無力さに絶望して自分なんかこの世にいらないとさえ思ってしまうかもしれない! それでもいいの!?」
言われる言葉のひとつひとつがあまりにも痛すぎて。聞いていると自分がどれだけみじめで小さい人間なのかを突きつけられるようで。
だからもう、何も聞かないように、何も考えないように、ただ耳を強く塞ぎ、目をギュッと閉じた。
――ねぇ優、何かあった……?
でもそうすると、これまで自分にかけられてきた彩香の声が聞こえてくるようだった。
――どうしたの……? 何かいやなことでもあったの……? ひょっとして、バイトでなにかあったの?
死んだほうがいいやつだっているんじゃないのかとつぶやいたとき、自分のことのように苦しそうな、泣きそうな顔をしながら、俺に詰めよってきた。
――優、何かつらいことがあったら口に出してもいいんだよ……? どんな汚いことだって私は構わないから……。言われても何もできないかもしれないけど、優が暗い顔してたら……私もつらい。
そうだ。彩香はずっと、俺のことを心配してくれていた。中学を卒業し、高校に入って診療所の手伝いをするようになってから、彩香と過ごす時間が減った。それから彩香は、俺がひとりで過ごす時間が苦痛にならないようにと、バイトをすすめてくれた。社会経験になるよ、なんて言っていたけれど、俺が過去を思い出して苦しくならないための気遣いなんだってわかってた。
彩香の純な想いを、見返りを求めない優しさを、胸があふれんばかりに思い出す。
強くてまっすぐな彩香。
明るい笑顔。嬉しそうにはにかんだ顔。幸せそうな微笑み。
そんなひとつひとつが、俺の希望だった。
俺の『世界』に彩りを与えてくれる存在。
これまで彩香が隣にいることで、どれだけ救われてきたかわからない。
彩香がいなければ、俺はとっくに世界に飲みこまれて、心のない屍になっていたに違いない。
でも俺は、弱い自分を見られたくなくて、泣き言だけは絶対に言わなかった。そんな情けないことをしたら、前へ進んだ彩香の隣にいる資格がないような気がして。彩香を守ると決めたのに、弱い自分でいてはいけないと思って。何もできなかったけれど、せめて弱音を吐かないことで、俺は大丈夫だと伝えたかった。
だけど、彩香に話せるような嬉しいことや楽しいことなんて何もなくて。だから彩香の話を聞くばかりで、自分のことは話さなくなった。
ほんとうは、大丈夫なんかじゃなかった! こんな世界は嫌だって言いたかった! 中学のときからこれまで“良いこと”なんてなかった。やりたいことも見つからない。趣味も見つからない。進路や進学といったことにすら無頓着で、高校だって彩香が行くという学校にそのままついていっただけだった。ひとりになるのが怖かったから。
俺の『世界』から、彩香までいなくなってしまうのが嫌だったから。
――私がもっと、優の話を聞いていればよかったのかな……?
――私がもっと優と話していれば……優のこと、わかることができてたのかな……。
彩香は、ずっと――
「――ッ!」
走り出した。何かが吹っ切れて、身体がとっさに動いた。
「彩香はもう家に帰っているわっ!」
うしろから天使の声が聞こえた。霊園に行ったことを知っていたんだ。
慰めればいいのか、謝ればいいのか。どうすればいいのか、何を言えばいいかなんてわからない。
でも、このままじゃいけない。傷ついて塞ぎこんでいるあいつを放っておくなんて。
もう、もう、二度とごめんだった。
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