きみとの距離 (5)



 ジメジメした空気にまとわりつかれながら家に帰り、着替えもしないままベッドに倒れこんだ。脳みそまでもがフヤけて全身がダルい。もう今は、何もする気力が起きない。

 だけど何もしないでいると、考えたくないことばかりが頭のなかに浮かんでしまう。

 部屋のなかで枕を抱いた彩香。屋上で魂を失くしたような姿になった彩香。墓石の前でしゃがみこむ彩香。そして、彩香のいない今の日々。学校への道。待ち合わせ場所にない姿。ひとりで歩く住宅街。違和感のある教室の空席。

 そんなひとつひとつを思い出すたびに、空虚を生みだす心の穴が大きくなっていくような気がする。あの灰色の夏休みのように、大切なものを失くした絶望がまた繰りかえされようとしている。

 彩人だけじゃなくて、まるで彩香まで失ってしまったような。

 自分の『世界』に残っていた、たったひとつの希望が失われてしまったような。


 ――はじめて、絶交しちゃうくらいの大げんかをしちゃった……。真っ向から意見が対立しちゃって、話し合いじゃ解決はできないかも……。


 彩香のこぼしたつぶやきのひとつひとつが、頭のなかによみがえる。

 意見が対立する。そんなことになったのはいつ以来だろう。彩人が死んでから、彩香に対して強情な意見を言ったことなんて、そういえばなかった。

 意地も、弱音も、イラだちも、怒りも。それを出してしまうことは、前へ進んで強くなった彩香に対して、どうしようもなく弱くて情けない自分を見せるようで、みっともなく思えたからだ。弱い自分を、見られたくなくて――。

 その先の言葉がふやけた脳に浮かぶのを避けるように、ゴロリと寝返りをうつ。目にうつるのは部屋のパソコンだった。いつもだったら今の時間にはもう、明日明里に殺してもらうための犯罪者のリストができあがってるくらいだ。それが今日はまったくできていない。

「…………」

 ウジウジと悩んでいる今の俺を見たら、明里はなんて言うだろう。呆れるだろうか。怒るだろうか。

 それとも、諭すだろうか。俺が人殺しをすると決めたのはなぜなのかと。その理由を思い出せと。

『今まで、何のために人を殺してきたの?』

 俺の頬をつつんで、吸い込まれそうになる瞳でまっすぐに見つめてくる明里が想像できた。普段の明里とはまったく違う静かな口調。

 大きく息を吸いこんで、考えてみる。

 俺は今まで、何のために人を――犯罪者を殺してきた。

 それは、理不尽が憎いからだ。理不尽を与えてくる人間が憎いからだ。

 そして、何の罪もない人を救うためだ。理不尽にまきこまれる人を、ひとりでも減らしたい。彩香や彩人みたいに、ほかの人が理不尽によって幸福を奪われるようなことがないように。そのために。そのためには。

 理不尽を引きおこす人間を、殺すしかないのだ。たとえすべての理不尽をなくすことができなくても。身勝手な理由で何の罪もない人たちの幸福が奪われないように、災害のように不幸だけを与えてくる人間を駆除しなくてはならない。それは彩香と同じ目に遭う人を今後出さないようにするためであって……決して、決して。

 彩香のためでは、ない。


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