きみが望んでいること (17)



 バイトが終わり、三十分がたった。

 すると控室のドアが開き、小凪が入ってきて顔をしかめる。何でまだいるんだよ。無言の表情にそう書かれている。自分の鞄を持ち、そそくさと更衣室の入ろうとする背中に俺は声をかける。

「なあ」

 さすがに小凪も立ちどまり、振りかえった。話しかけられたことを心底うっとうしく思っているのが、不機嫌そうな顔からよくわかる。

「何だよ」

「俺、おまえに嫌われるようなことしたか?」

 小凪は、何を言われたのかわからないような、きょとんとした顔をしていた。あそこまで露骨に嫌がらせをしておきながら浮かべるようなものじゃない。だからといって、わざとらしくすっとぼけているのでもない。きっと、こいつはほんとうに、俺が何で突然こんなことを言ってきたのかわからないのだ。

 でも、敵意の消えたその表情は、俺が抱いている希望を大きくしてくれた。責めるような口調ではなく、できるだけ誠実に聞こえるよう気をつけながら俺は言う。

「いつも俺に嫌がらせしてくるけど、何でだ? 何か気にさわるようなことしたのか?」

 続ける言葉に、小凪はようやく不意を突かれたように気まずそうな表情を浮かべた。

 なんとなく、わかってる。きっと特別な理由なんかないんだ。ただ漠然とムカつくとか、責任を押しつけるのに都合が良さそうだとか、そんな程度のことなんだ。明確な理由がないから、こうして真正面から聞かれて困っているんだ。

 それでも。

「もしそうなら謝る。けど、何も言わないでああいうことするのは、もう勘弁してほしい」

 それでも俺は、小凪のことを理解したいと思う。良いところも悪いところも全部。どうしようもないやつに見えるけど、それだけじゃないと信じたい。

「…………」

 小凪は、何も言わない。気まずそうに俺から顔を逸らし、どう対応するのが最適なのかを探すように身体をそわそわと動かす。

 口を開かない小凪に対して、俺もそれ以上に続く言葉が浮かばなくて、次第に沈黙が気まずくなって、焦ってくる。まだこっちが何か言わなきゃいけないのだろうかと、そんな思いにかられて耐えられなくなった。

「俺だって、その……さすがにキツいんだ」

 小凪は息を止めて俺を凝視した。

 なんてかっこわるい台詞。なんて情けない台詞。

 でも、これが本心なんだ。今まではそうした苦しさを内側で溜めるだけだった。だけど、そういうことはやめようって思ったんだ。不平不満を心のなかでつぶやいて遠ざけるんじゃなくて、ちゃんと人と接しようって。

 彩香とケンカしたときのように。

 明里が人と接するのを楽しんだように、俺も人を好きになろう。

 小凪は居心地悪そうに口元をもごもごと動かし、何かを言おうとしては結局言えずに口を閉ざす。そんなことを何回か繰りかえし、沈黙がふたたび肌をこすりはじめたころに、

「……悪かったよ」

 罪悪感を混じらせるように、その一言だけ口にした。

 俺はそれだけで、どうしようもないほど嬉しくなってしまった。

 そんな言葉ひとつで済ますことを、きっと以前の俺だったら許さなかった。

 でも、これでいいんだ。ほんのすこしずつでも、今までの関係が溶けてべつのものに変わっていってくれるなら。おまえも、すこしでも俺との関係が良くなればいいと、そう思ってくれるなら。

 俺は心のなかがあたたかくなっていくのを感じながら、顔を上げた。



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