きみと出会ってかわったこと (14)


 バイト帰り、俺はまたイラついていた。相も変わらず、卑怯者の同僚や、考える脳のない上司は、非の押しつけやがなり立てるのに忙しいようだ。そして、その矢面に立たされる俺もまた、相も変わらず怒りを押さえこむだけだった。その姑息な脳みそや、罵るときにだけ語彙が増える口を、何かほかのことに使えと思わずにいられない。

 だけど俺が今イラついているのには、それ以上のべつの原因があった。いつも俺の横でふよふよと浮いてるうるさいやつ。今はシラけているのか、そいつの姿は見えない。



 今日のバイトは、ボロボロだった。体調不良で欠勤がひとり出てしまい、そんななかでの平日とは思えない客入りの良さのせいで、ファミレスの厨房は壊滅状態だった。次から次へと注文が入り、とても対処しきれない量にあそこまで愕然としたのははじめてだった。それでも助けをもとめられるほどほかの人も余裕はなく、料理提供は遅れに遅れ、接客のメンバーにも多大な迷惑をかけた。俺自身にもミスは多く、その点はほんとうに申し訳なかったと思う。

 だが、まったく関係ないところの失態を勝手にこっちの責任にされたり、八つ当たり的に怒りをぶつけられるのは堪らなかった。

 同僚の小凪こなぎの、ねちっこく人を見下すような高い声が、忌々いまいましく耳に響く。


 ――そっちがつまんないミスするから、こっちまで狂ったじゃん。


 ――まだ終わってなかったの? しっかりしてよ、君のポジションの仕事だろ? じゃないとこっちまで遅れちゃうよ。


 できることは俺と大して変わらないくせに、偉そうにそんなことを言ってくる。

 だけど、客が引きはじめてようやく最後の料理を出すところで、小凪に立て続けにハプニングが起きた。

 オーブンを通した鉄板に指先が触れてしまったり。手を滑らせて食器を割ってしまったり。包丁で指を切ってしまったり。

 そんな、誰でも一度はやってしまう程度の些細なミス。だが、わずか五分のあいだで起きる出来事にしては、それはいささか過剰だった。いくら作業が手つかずで焦っていたとしても、はじめて仕事をする新人だってそこまでのドジはしないだろう。小凪はそのたび店長に怒鳴られ、悔しそうに顔を歪めていた。

 俺は、それが何によって起きたものなのかをすぐに察した。

「どういうつもりだ」

 シフトから上がって控え室に入るなり、俺は強い口調で明里に問いつめた。

「絶対にやりかえすなって言っただろ。明里がやったんだろ、あれ」

「べつにー? 優のためじゃなくて、あたしがイラついたから勝手にやっただけだよ」

 姿を現した明里はあっさりと肯定した。とぼけるかもしれないと思ったが、その必要すらないと思っているようだった。反省するまでもないと。

「ああいう、プライドだけ無駄に高くて威張ってるやつが大っ嫌いなの。だからちょっとだけ痛い目に合わせてやっただけだよ。上がる間際だったんだし、べつに優に迷惑かけたわけじゃないでしょ?」

「だけど……!」

「だいたい、あんなの二、三日もすれば治るような怪我じゃん。優だって、あいつが怒鳴られたり無様に手ぇ切ったりして悔しそうな顔してるの見て、スカッとしなかった?」

 その言葉に、息が詰まった。

 うるさい。黙れ。あの程度で済まなかったらどうするんだ? 鉄板をもうすこし長く触っていたら? 割れた皿の破片が目に飛びこんでしまったら? 包丁がもうすこし深く指に食いこんでいたら? 冗談では済まないことだってありうるだろ。

 でも、そんな批難の言葉はひとつも口から出てこず、明里の言うとおり俺は思ってしまっのだ。普段俺に対して不愉快な気持ちばかり与えてくるあいつが、何もできずにただ惨めな姿を晒しているところを見て。

 ざまあみろ、と。

 それを自覚した瞬間、自分がひどく下劣な人間になったような気がして、たまらない自己嫌悪に襲われた。

 それ以上自分の感情を考えたくなくて、そのまま明里との会話を打ち切り、俺はバイト先を飛びだした。



 歩いている夜道は、明里とはじめて出会ったときを思い出させた。どうにもならない胸糞悪さと、どこにも吐きだせない怒りがうず巻いて、頭の芯が熱くなる。ムシャクシャした汚い感情をどこにも捨てられず、自分の心がゴミ箱になったように感じてすさんだ気持ちになった。

 イラだちと気まずさを感じたまま歩いていると、はしゃぎながら五歳くらいの男の子が俺を追いこしていった。すぐ後ろから子供をたしなめる両親の声が聞こえて、ふたりもまた早歩きで俺を追いこした。

 父親と、母親と、子供。

 三人。

 きっとどこかからの帰りなのだろう。男の子は飛びはねんばかりの勢いで前を走っていて、それを微笑ましそうに見ながら、あんまり走らないようにと注意する両親。幸せいっぱいで、両親のほうも口では子供を注意しつつも、しょうがないなという顔をしていた。あたたかい光景だった。こんな光景がこの世にあふれていればいいのにと、そう思わずにはいられない。

 子供はそのまま青信号になっている横断歩道へと飛びだし、ウキウキと飛び跳ねるあまりに躓づいて転んでしまった。

 クラクションが聞こえた。

 内側から心臓を叩き鳴らすような不協和音に、身がすくんでしまう。

 嫌な予感がし、脳が警鐘を鳴らす。ダメだ。この先は見ちゃダメだ。

 でも身体は動いてくれない。

 横断歩道のあきらかに赤信号である方向からまっすぐに大型トラックが突っこんでくる。両親にとびきりの笑顔を見せていたはずの子供の顔が、その強烈な音に向かっておどろきと怯えへと変わり、そして――人間が肉塊に変わるときのぐしゃりというグロテスクな音が響きわたる。

 たった三秒程度の出来事が、人生を奈落の底へと突きおとす。

 俺はそれを、知っている。

 その先にどんなことが起こるかも、知っている。

「いやあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 ――母親の、自身の喉すら裂いてしまいそうなほどの甲高い叫びが、鼓膜を貫いた。

 道路に飛び散った子供だったもの。震える男性の瞳孔。耳を切り裂くような女性の叫び。

 それらのすべてが、

 俺は、その場から全力で逃げだした。

 もう何も考えられなくて。走っていて派手に転ぶことにすら痛みも感じなくなり、ただあの場から逃げるためだけに命のすべてを注ぐかのように走りつづけた。やがて真っ暗な誰もいない自宅にたどりつき、家に入るなりトイレに飛びこんで、胃の中のモノをすべてぶちまけた。

「うえっえぇぇ! げぇ! げはっ! かはっ! ……かっ、はぁ! ぐえぇぇッッ!」

 自分のものとは思えない、つぶれたカエルのような声を出して、口から汚物がボトボトと吐き出される。異臭が鼻の奥に入り、気持ち悪さがいっそう込みあげてきて、また吐き出す。やがて吐くものがなくなって、汚い胃液しか出てこなくなってもまだ嘔吐感が消えず、口を開けてひぃひぃと懸命に呼吸をするしかなかった。

 そうしてたった時間がどれぐらいだったのかはわからない。数秒だったのか、数分だったのか。だけどいつの間にか。

 俺の後ろには、彼女が――死神がいた。

 まるで暗闇を這いよる悪魔のように、異様な気配を持って。

「交通事故なんてめずらしくないよ。すくなくとも、連日ニュースで取りあげられるくらいには頻繁に起きてることだし」

 彼女は抑揚のない声で言った。

 そうだ。交通事故なんてめずらしくない。

「優は、それで許せるの?」


 ――まだ呼吸をするのに精一杯な俺の返事は待たず、彼女は続ける。


「何の罪もない、ただ幸せを感じているだけだったはずの子供はあんな無残に殺されてしまったのに、その子供を轢き殺した運転手がのうのうと生きつづけるのは、許せるの?」


 ――彼女の声は、耳元で囁かれていると思えるくらいに透きとおってくるのに、まるで別世界からの声を聞いているように、どこか遠くにも感じた。


「もしこれでも頷かないようなら、あたしはあなたの前から姿を消す」


 ――それはまるで、悪魔の囁きのようだと、そう思った。


「だからこれが、最後のチャンスだよ」


 ――違う。これは悪魔の囁きじゃなくて、


「あたしの力を、使ってみない?」


 ――死神の、誘惑だ。


 俺は頷いた。

 そうだ。こんなの間違ってる。何の罪もない人が死んだり、苦しんだりしているのに、だけどその理不尽を与えるやつは、のうのうと生きている。

 罪には罰。因果応報。自業自得。

 それがまかり通らない現実。それはダメだ。そんなのは正しくない。

 女子生徒をいじめ殺した者。子供を衰弱死させた父親。泣き止まないという理由で虐待をする母親。好奇心だけでバラバラ殺人を犯す精神異常者。生徒を脅して肉体関係を迫る教師。

 そんなどうしようもない腐った人間どもの顔が、見たこともないのにゴキブリの群れのように頭のなかを埋めつくしてきて、全身が総毛立つ。

 理不尽、理不尽、理不尽。

 生きるべき人間が間違ってる。生きるべきでない人間が間違ってる。死ぬべき人間が間違ってる。死ぬべきでない人間が間違ってる。幸福が与えられるべき人間が間違ってる。不幸が与えられるべき人間が間違ってる。世のなかは間違ってる。間違ってる間違ってる間違ってる!

 世界は、間違っている。

 だから俺は、今自分の後ろにいる理不尽を引きおこすことができる存在を使って。

 この世の不幸な理不尽をひとつでも多く消そうと、そう決めた。


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