二章 きみが笑ってくれたから
きみが笑ってくれたから (1)
「明里には、犯罪者を軒並み殺してもらう」
カーテンを閉めきった暗い自室のなかで、俺は淡々と告げた。
トイレで胃のなかのモノを吐きだしながら激流のような感情に支配されて、しばらくは身体を動かせなかった。それがすこしすると今度は頭が朦朧としてきて、次第には脳みそに氷が埋められたように急速に頭が冷えた。のろのろとトイレから這いだし、汚くなった口のなかを流し台で洗うと、思考は暗闇に光る刃物のように冴えていた。
そうして部屋にもどって開口一番、俺はその台詞を口にした。
明里は露骨にギョッとした。それもそうだ。明里は最初、俺を理不尽な目にあわせたやつに痛い思いをさせてみないかとそそのかしてきただけだ。自分で提案したそれが、こんな過激な規模になって返ってくるとは思わなかっただろう。
「犯罪者を軒並み殺すって……どうやって?」
「腐った人間なんか、この世にはごまんといる」
俺が部屋のパソコンでいくつかの操作をし、各所で三回出てくるパスワードをそれぞれ入力すると、百個以上のフォルダがずらりと並ぶ。そのなかのひとつを開くと、明里が目を見開いた。
『刑期終了』と書かれたそのフォルダのなかには、大量の人間の顔写真と名前が記載されている。
簡単に言えば、犯罪者のリストだ。一般には公開されていない。
「え、なにこれ。ひょっとしてハッキングってやつ? どこで覚えたの、こんなの……」
「……まあ昔だよ。それより」
俺はパソコンの前をどき、明里に画面を見せる。
「ここに表示してるのは、警察がこれまでに捕まえた犯罪者のリストだ。正確に言えば、今現在牢屋にブチこまれてるやつじゃなくて、刑期を終えてすでに釈放されたやつらだ。ほかにも執行猶予だけで刑務所にまでは入れられなかったやつなんかも、べつのフォルダで見られる。何年何月何日に逮捕されていつ釈放され、どんな動機でどんな罪を犯したやつなのかが全部載ってる。プロフィール、経歴。性格もあらかた」
そこまでをツラツラと説明すると、明里はめずらしく焦ったように手を前に出して俺を制止しようとする。
「や、待って待って、急すぎるって。だいたい何でそんなのパッと見られんの? いくらハッキングが得意だからって、そんな極秘資料を簡単に見られるわけ?」
「俺の父親が警察官なんだ」
サラッと言うと、明里は口を閉じた。ここ一週間俺にまとわりついて、家ですごす父さんの振るまいに、思いあたる節を見つけたか。
「それで警視庁のファイルに、父親のIDでアクセスして見てる」
「いや、そんなのすぐバレるんじゃ……」
「足跡残すなんて、そんなマヌケなことするか」
明里は唖然とする。
それもそうだろう。誰にも見せたことなんかなかったし……俺自身、またこんなことをするとは思っていなかったのだから。ともかく今話すべきは俺のことなんかじゃない。
「今言ったとおり、ここには……どんな理由で犯罪に手を染めたのかまで載ってる」
そう。いろんなやつがいる。
強盗や窃盗。詐欺。財産の横領。子に対する虐待。薬でイカれた末の殺害。快楽殺人。無差別殺人。あるいはそのいくつかを同時にやった者さえいる。いずれもが許されざる行為だと思う。
けれどここで一番の問題となるのは、その方法や行為そのものではない。
どうして犯行に及んだのかだ。さまざまな動機がある。
「誰でもよかった」「ついカッとなった」「ノリでやった」「ムカついた」「楽しかった」「退屈だった」「目立ちたかった」「金が欲しかった」「うるさく叱られた」「殺すと満たされた」「性欲を満たしたかった」「怒りのはけ口にしたかった」「他人を支配してみたかった」
くだらない理由。身勝手な理由。利己的な理由。
そんなもので、平穏のなかで生きる人の身に不幸を与え、幸せを理不尽に奪う者というのがこの世には多すぎる。
膿のように、ただ存在しているだけで有害となっている者たちに、死神の裁きを下していくのだ。
「明里には、ここで俺が指定したやつを殺していってもらう。同情の余地のないこいつらを、事故や病気に見せかけて殺すんだ」
「っていっても……」
明里が苦い顔をする。
「そもそも、どうやってそいつらを見つけだすの? 捕まってるうちはほかの人に手出しできないから、刑務所にいないやつを殺すっていう理屈はわかるけどさ。でも刑務所から出ちゃってるんじゃ、探しようがないんじゃ……」
「問題ない」
ためしに犯罪者のデータのひとつをクリックすると、その人物の詳細が、俺の言ったとおりに出てくる。
「あっ……」
と、漏らした声。明里も気付いたようだ。
そう。今ここに載っている釈放された犯罪者ども。こいつらの釈放後の住所と職場もここには載っているのだ。
「場所さえわかっていれば、どうにだってできる」
殺しかたなんて、いくらでもあるのだから。曲がり角に飛びでたときに横から車が突っこんできたら。転んだときに打ちどころが悪かったら。突然車のブレーキが壊れたら。階段から足を踏みはずしたら。食べ物が喉に詰まったら。包丁を持った手先が狂ったら。ある日突発的に不治の病にかかったら。
人なんて簡単に死ぬ。仮に殺せなくても、二度と動けない身体にさえなればいい。
理不尽を引きおこす存在ならばそれができるのだ。
「あっはは……なるほどね」
明里は顔を引きつらせていた。ひょっとしたらバカにされているかもしれないと思ったが、そうじゃない。その顔はむしろ、わき上がる高揚を抑えきれないものに見えた。こんな狂った提案でも死神は
「ちなみに優。あたしの力は遠隔操作できるようなものじゃない。ここから目にも見えないような遠くにいる犯罪者を殺すとかそういうのは無理だよ。あたしがそいつらのところへ直接行って殺してくるってことになるけど、それは把握してるんだよね?」
「ああ、もちろんだ」
「ただそれって、あたしがいちいち飛んでいくこと……それも、かなり早く移動できることが前提になってるよね? たとえ殺す対象をこの関東だけに絞ってもかなりの速度は必要になる。でもあたしがそんなに早く飛べるなんてたしかめたことあったっけ? あたしが自転車くらいの速度しか出せなかったら、それだけでこんな計画パーだよ?」
「明里が早く飛べることなんてとっくにわかってる」
「何で? もしかして最初に会ったときのこと覚えてるの? あたしが優を追いかけたときのこと。でももしかしたら、あれがあたしの全力だったかもしれないじゃない」
「それはない。だって明里、あのときまったく疲れてなかっただろ?」
「単に死神には疲労っていう概念がないだけだとしたら? どれだけ全力で飛んでも疲れないんだったら、そんなのアテになんないでしょ?」
「それもない。明里がはじめて俺の学校にきて一日中力を使いまくった日、覚えてるか? 俺に何度も消しゴム落とさせたり、ほかにも散々やってくれたあの日だ。あの日の下校時、たしかに明里は疲れてた。つまり死神ってのも、力を使いすぎれば疲労は感じるんだ。だけど俺を追いかけてるときはそうじゃなかった。俺はそんなに足の速いほうじゃないが、それでも全力で走ってる人間を楽々追いこせるくらいのスピードは出してたのに、明里はちっとも疲れてなかった。だったら本来は、もっと速く移動できたっておかしくないはずだ」
「……案外よく見てるんだ。おどろいた」
「ちなみに、全力ならどれくらいの早さで飛べるんだ?」
明里は自分が死神であることをはじめて告げたときのように、胸に手をおいて自慢げに答えた。
「新幹線も追い越せる」
期待以上。文句のつけようもない。建物や障害物に邪魔されない死神だったら、どこへだって行ける。
しかし明里はすぐ真顔になった。
「ただ、それだけじゃ限界があるよ。前にも言ったけど死神の力は万能じゃないし、あくまでも物事を促進させるだけだから限度がある。とくに、神経質だったり注意深い人間なんかは意識をほかに向けるのも難しいから本人の過失でっていうのも難しいし……」
「わかってる。殺しそこねた場合は一度あきらめて、しっかりしたプランを練り直す。もちろんその場でまたすぐにチャンスがあったなら、そのまま明里の判断で殺してくれて構わない」
「任せといて」
その、どこかいきいきとした表情で俺を見つめる明里を見て感じる。明里が今嬉しがっていることを。自分の力を使えることを。それも、こんなとんでもない発想でもって遠慮なくできることを。
平静を装いつつも、俺はそんな明里にわずかな恐怖を感じていた。だから俺は、つとめて冷徹な暗殺者のように、無機的に質問をした。
俺はこの死神と手を組むのだ。臆してはいけない。
「ただ、念のため確認しておきたいことがある」
「確認したいこと?」
「明里の目的だ」
そう言うと、明里はすこし身を固くした。思えばこれまで曖昧になったままだった気がする。
「明里は死神として、何でここにいるんだ? どうして俺に近づいてきて、自分の力を使わせたがったんだ?」
「……最初に言わなかったっけ?」
平静な態度、に見えた。だが、一瞬の間があったように感じた。
明里は目をつむり、記憶をたどるように言う。
「まず教えとくと、死神っていうのはべつに役割をもってるわけじゃないの。掟とかもあるわけじゃなくて、個々が好き勝手に生きているだけ。だから目的なんて、あるのもいればないのもいる。だからあたしは、あたし自身の目的に従って優の側にいるだけ」
「明里自身の目的って何だ?」
「これが最初に言ったってやつ。優が理不尽を憎んでいるようだったから、その理不尽に同じ力でもって復讐をしない? 自分を理不尽に追いこんだやつを痛い目にあわせてみない? って提案したかっただけ」
「でもそれ、明里が得をするようなことじゃないよな」
「そうでもないよ」
すこしだけ眉をキツくして、明里は言う。
「あたしも、理不尽ってものが許せないの。だからそのために自分の力が使えるのなら、それだけであたしは満足。あたしは死神のなかでもたぶん特別な存在でさ。理不尽を起こす存在でありながら、理不尽を憎んでる。理不尽に不幸を引きおこすという犯罪者を殺せって言うなら、あたしはそれに従う」
「理不尽を憎んでるってのは何でだ?」
「それはいま必要な質問?」
「…………」
それもそうだ。問題ない。次の質問。
「わざわざ俺に近づいた理由は?」
「これもさっきのと同じようなもの。優が理不尽を憎んでいたからだよ。だからまあ、理不尽を憎んでる人間でさえあれば誰でもよかったんだよ。そういう人の手助けをしようって思ってただけ。あたしはそうやって世界をまわってすごしてきた。だから本来は、その人の願いさえ叶えたらまたべつのところへ行こうって思ってたけど……」
明里は冷や汗をたらしながらも笑う。
「今回は、そう簡単には優のもとを離れられそうにないかも」
「…………」
これも、問題ない。
「……それと、最後にもうひとつ」
「なに?」
「明里」
落ちついていたつもりだった。でも息が喉につまって、唾を飲みこんでしまうのを止められなかった。
「明里は、人を殺したことがあるのか?」
そう聞いた瞬間、明里の顔が能面を張りつけたような無表情に変わった。
こんなのわかりきっていることだった。でも、しておかなければいけない質問のような気がしたのだ。
明里は俺の目をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。感情の読めない表情がおそろしい。視線が交錯しているその沈黙が何を意味するのか。俺の意図をはかろうとし、どう答えようか迷っているのだろうか。
俺も明里から目を逸らさなかった。
やがて胃が痛くなるような沈黙の末に、明里は俺を見つめた無表情のまま、
「あるよ」
と、答えた。
俺もおどろきはなかった。
「あたしはさっきも言ったとおり、理不尽を憎んでる人間を助けてきた。だから、その人自身や、その人の大切な人に理不尽を与えた人間を何人も殺してきたよ」
人数なんか、とっくに忘れるくらいに。最後にそう付けたして。
温度のない声が、耳に透きとおってくる。いったい、どういう感情で人を殺してきたのだろうか。楽しんで殺したのか。明里なりに苦しんで殺したのか。それとも無機的に、無感情に殺したのか。人間の命に意味などないとでも言うように。
でも、それを問いつめる必要はない。十分だった。
「そうか」
だから俺は、たったそれだけ言ってそれ以上質問を重ねることをやめた。
決定だ。俺と明里の利するところは一致している。
手順はこうだ。
俺がまず、パソコンでハッキングをし、ターゲットを決めるところからはじめる。そのうえで、住所や職場が近い者同士を何人か選別する。明里がひとり殺すたびに遠くへ移動するのでは効率が悪いからだ。選別が終わったら、今度は明里にそれぞれのターゲットの顔と住所と職場を覚えてもらう。今ではインターネットで、ズーム比自在の航空写真やストリートビューを使って、世界中のどこだって見渡すことができる。そうして明里にそこまでの進路や景色を覚えさせれば、ターゲットの場所へと辿りつくことができる。建物や道路を気にすることなく直線距離で行けるのだから、辿りつくのも早ければ迷うこともない。時間は基本的に、その日の朝から夕方。ただし、相手の生活習慣や明里の疲労具合によって変える必要もあるだろう。ターゲットが自宅や職場にいない場合は後回しにし、ほかに指定した者のところへ先に行く。
そして見つけ次第、執行だ。
これで準備は整った。
だが。
「で、どうするの? 明日からもうすぐにはじめる?」
「さすがに今日はもう遅いしな。ただ、悪い。明日そのまえに、ひとつだけやっときたいことがあるんだ」
「やっときたいこと?」
そう。これだけ殺すと息巻いてはいるが、結局現地での行動は明里任せになってしまう。物に触れることのできない死神は電話を持つこともできないので、明里とは離れてしまった場合連絡も取れない。ゆえに具体的な指示をその場で出すこともできない。俺にできるのはあくまでもターゲットを絞り、その場所を割りだすところまでだ。
つまり実際にターゲットをその目で見て殺害し、死体になったのを確認するのはすべて明里なのだ。
俺自身は手をよごすことなく。
「これから俺は、人を殺していくんだ」
たとえ直接的な実行犯は明里だとしても。相手が同情の余地のない、人間とも呼べないようなやつらだとしても。
この計画は、俺のものなのだ。明里が殺しているのだから自分は悪くないなんて、そんな甘ったれた考えだけは絶対に持ってはならない。
「だから犯罪者の最初のひとりは、俺の目のまえで殺してくれ」
刻みつけなくてはいけない。
人の命を奪うということを。自分が殺すんだということを。
じゃあどうするの? と、明里は聞いてきた。
俺は答えた。
「学校に行く」
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