きみと出会って変わったこと (2)

 数分前。ものにしておよそ五分にも満たないであろうそのとき。

 俺はひどくイラだっていた。

 家へと続く夜の住宅街。春の外気はまだ肌寒く、月の光と電信柱の蛍光灯だけが照らす薄暗い夜道は、わきあがる不快な気持ちに拍車をかけていた。夕方まで強い雨が降っていたせいだろうか。地面も、住宅を囲う石の壁も、どこかの家の庭から伸びる木も、触れれば泥が付くくらいに何もかもよごれていて、自分が生きている現実はやっぱり汚いんだなと、そんなふうにさえ感じてしまう。

 中学のときからこれまで“良いこと”なんてなかった。やりたいことも見つからない。趣味も見つからない。進路や進学といったことにすら無頓着で、高校だって幼馴染が行くという学校にそのままついていっただけだった。今にしたって「良い社会経験になると思うよ」とすすめられて、それから暇つぶしの金を確保するためにバイトをしているものの、それを考えなければ、きっともうとっくにやめている。

 いや、事実もう、バイト自体は何度もやめているのだ。高校二年生の五月現在。今やっているファミレスの厨房のバイトはたしか六個目で、かけ持ちは一度もしたことがない。いずれも人間関係がうまくいかなくてうんざりし、数ヶ月働いてはやめてを繰りかえして、今にいたる。

 人間関係。

 そもそも、他人と接するのは苦手だ。自分の知らないところでは何を考えているのかわからないし、あからさまに悪意をぶつけてくるヤツもいれば、事情も知らないのにがなり立てるだけの人もいる。

 さっきのバイトだってそうだ。同僚は自分のミスを、とっさに俺がやったのだと言いはじめた。上司はそれを疑うことなく俺に怒鳴りちらし、説明しようと思えば「言い訳するな」と、口を開くことさえ許可しない。そのとき見えた卑怯者の歪んだ口元は、この目にしっかりと焼きついていた。

 ――自分は悪くないのに、被害を受けるという理不尽。

 世のなかにはそんなものがあふれ返っていて、俺はそれを常々感じずにはいられなかった。高校生になってバイトをはじめてからは、とくにそうだった。自己保身に必死になる同僚や、うさ晴らしをしたいという理由で罵倒をくりかえす上司。他人という存在に心底うんざりしてしまい、いつもバイトは長く続かなかった。

 いっそのこと、本当にバイト自体を完全にやめてしまおうかと、何度思ったかわからない。だけど、働きもしないで家にいるといろいろと考えてしまって――過去のことを思い出してしまって。

 それが耐えられなくて、いつも違う逃げ口をさがしている。

 ……仕事としての自覚すら持たないそんな生ぬるい考えだから、いつもうまくいかないのだろうかと、そう思うこともある。

 それがないとは言わない。

 だけど、それだけだとも思えない。ともに働く人の人間性なんて、自分の意識次第でどうにかなるとは思えない。

 ネガティブな思考をし、また不愉快な人間たちの顔を思い出してしまったせいで、この怒りを何か他のものにぶつけたいという激しい衝動が突き上げてきた。周りを見ると、自販機の光に照らされたゴミ箱が見えた。きっと今日一日そこで買われた缶やペットボトル、家庭で邪魔になったもの、あるいは飲み残しなんかが平気で捨ててあって、中はいろんな液体まみれで汚らしいことになっているのだろう。

 俺はまわりに人がいないのを確認し、そのゴミ箱を力の限りに――

「くっそッ!」

 ――蹴飛ばした。

 凄まじい音がした。ペットボトルがヘコむ音やアルミ缶がぶつかり合うきわめてやかましい音とともに、ゴミ箱は数メートル転がっていった。

「……っはぁ、……はぁ」

 近くの住宅の壁に手をつき、痛む爪先を見つめた。手のひらいっぱいにじゃりっとしたものが付着する。やっぱり汚い。

 バイト帰りの夜中、夜の十時近い時間。アルミ缶が大量に入ったゴミ箱を蹴りとばす音なんていうのは、虫の声ひとつしないこの静寂のなかではあきらかな近所迷惑となる騒音だった。幸いにも家を飛びだしてくる人はおらず、再び静寂がもどった。

「……っ。何で俺がこんな目に……」

 イラだちが、つのる。今まで何度も体験してきたことなのに、腹の底から噴き上がってくるこの不愉快な気持ちには、いつまでも慣れないのだ。

 うつむいた視界の中でかすかにうつるゴミ箱をひどいダルさとともに見つめてから、倒れたゴミ箱をそのままに立ち去ろうとしたとき――突然耳元で、あきらかに誰かをおどろかすことが目的の、

「わっ!」

 という声が聞こえて、心臓が飛びでるかと思った。誰もいなかったはずなのに!?

 反射的に後ろを振り向くと、そこには――

「えっ?」

 ――パジャマを着た女の子がいた。自分と同じ高さにある彼女の顔に続いて、嫌が応にも目に入る淡いピンク色をしたチェックの柄のパジャマ。

 ?? パジャマ?

 俺の頭は混乱で埋めつくされた。

 ここは人通りの少ない夜の住宅街であって、そもそも屋内じゃない。暗い夜道の蛍光灯にうつし出されるその明るい色の服装はあまりに目立っていた。

 次に目に入ったのは……素足だった。

 そしてその素足を見た瞬間、頭のなかは混乱から恐怖へとシフトチェンジした。

 靴も靴下も履いていない生々しい足が、むき出しになっている。少女であることをかんがみてもあまりに細くは見えるが、それ以外に不審な点はない。変なものがついているとか、人間の肌の色をしていないとか、そういうことでもない。それでも俺はただ、その足に目が釘づけだった。

 彼女は今、顔の高さが俺と同じ位置にある。パッと見、上目遣いでもするように腰を曲げているように見えるのにだ。だからといって、その身長が異様に高いというわけではない。その姿勢からたしかなことは言えないが、おそらくは俺より低い、中学生くらいの女の子と大差ないように見える。なのに、頭の位置が同じ。

 そう。彼女は、浮いているのだ。

 全身に戦慄が走る。背筋が凍り、すべての毛穴から汗が噴き出した。

 浮いてる。何度見ても浮いてる。地面から十数センチ離れたところに、ようやくそのむき出しの足が見える。ふよふよと、空気を漂うように。人の形をしていながら宙に浮くという、重力という物理法則への反逆を、しれっとした顔でやってのけている。

 にこにことした笑顔を向けられて、俺はもう冷凍庫に突っこまれた肉のように固まることしかできなかった。

 彼女は俺の反応を楽しんでいるかのように笑顔を崩さないまま、「ねぇ」と前置きをして問いかけてきた。

「ほかの人も、同じ目にあわせてみない?」

「……はぁ?」

 そんな間抜けな返事しか返せなかった俺の頭は、もう完全に思考停止していた。同じ目というのが何なのか。そもそもどこから現れたのか。何でパジャマ姿なのか。っていうかなぜ浮いているのか。

 わからないことや聞きたいことやツッコミたいことだらけで頭が動転している俺に対して、さらに追い討ちまでかけてきた。

 コホンッとわざとらしく咳払いをして、さも誇らしげに、まるで子供が自慢でもするかのように胸に手をおいて、彼女は言った。

「あたしはね、死神なの」


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