きみが笑ってくれたから (9)



 俺が背中に付いた制服の埃を払って病室を出るのに従い、明里も俺の横に並ぶ。

 午後四時三十六分。指定した時間の四分前。

 入口のあるロビーへ行くと、額に軽く汗の残ったひとりの女生徒が立っていた。

 華秧さやか。

 明里からその外見についてはすこし聞いていたが、実際に見るのははじめてだった。汗でへばりついていなければ艶やかであろう黒髪を伸ばし、ポニーテールにしている。制服はブレザーの第一ボタンを外して、スカートを太ももの半ばくらいまで短く折ってはいるが、それはほかの生徒もあたりまえにやっている程度の着崩しかただ。派手な化粧やピアス、ネックレスやアクセサリーの類もない。そのポニーテールが特徴的なだけで、そのほかに関してはどこの学校にいたっておかしくない普通の外見をしている。そこだけを見れば、援助交際やイジメといった行為に及ぶような人間には見えない。俺が勝手に想像していたような、不良やギャルっぽい要素は皆無だ。冬見先輩が言ったとおり、普段はマジメで通っているというのもうなずける。

 だけど、長い睫毛に縁取られた大きな目。それだけは今、氷柱を限界まで尖らせたような絶対零度の殺意に満ち満ちている。日常で人に向けることはありえないその視線に、覚悟はしていたもののゾッとしてしまった。

 俺が向こうの姿を見るのと同じで、向こうもまた俺の姿を見るのははじめてだろう。華秧さやかはその顔に混乱をにじませながらも、刺し殺そうとするような目で俺を睨んだ。

「誰、アンタ?」

「手紙は持ってきましたね?」

 気後れしないよう、俺も強気に答える。

 質問を無視した俺の問いに、華秧さやかはその目にさらに殺意をこめた。

「アンタは誰だって聞いてんのよ」

「質問に答えてください。刃向える立場じゃないはずです」

 俺はわざとらしく、華秧さやかのスマートフォンを上に掲げ、画面に指をかける。画面はもうラインでの送信の準備ができている。

「先ほどグループを新しく作って、登録されている全員を招待しました。学校のクラスメイトも、他クラスの友人も、部活の後輩も、家族もみんな一緒くたに。もう何十人も入ってますけど、急に変なクループが作られたので乗っ取られたのかと心配している人もいっぱいいますね。いい人たちですよね。……こんな中に、あなたが仲間内と交わしたやり取りが載せられたら、どうなってしまうんでしょうね?」

 華秧さやかの目がカッと見開き、憎しみに歪む。忌々しげに舌打ちをすると、左ポケットからくしゃくしゃになった手紙を出した。

「アタシの机にこれ入れたのも、アンタ?」

「ええ」

「アンタ、花散とどういう関係なの?」

「答える必要はありません」

「ふぅん……」

 ――

 突然。華秧さやかが口元を歪めてそう言ったのを聞いて、背筋が寒くなった。失敗した。俺は今、あたりまえのように敬語で話していた。花散先輩や冬見先輩と同学年。そんな認識が頭に擦りこまれていたからだ。たがいに制服であることも見破られる要因になってしまったはずだ。自分の優位が乱されたように感じ、心臓の動きがドクドクと早まる。

「ひょっとしてアンタ、花散のこと好きなの?」

 目をいやらしく細め、口の端をすこしだけつり上げた嘲るような口調に、自分のこめかみが震えるのがわかった。

「かわいそ。アイツ、援交以外でもくだらない男と付き合って寝てるんだよ」

 スマートフォンを握りつぶさんばかりの力を拳にこめたとき、

「カッとなっちゃダメだよ」

 横の明里が口を開いた。

 突然聞こえたその毅然とした声に、とっさに前に出かかった足が止まる。

「あいつは優のスキを狙ってる。どうにかしてスマートフォンを奪いかえそうと。落ちついて。優が絶対的に有利なのは変わらないよ」

 その言葉に、熱くなった頭が落ちつきを取りもどす。そうだ。今この状況で有利なのは間違いなく俺だ。華秧さやかは俺に対する武器を何も持っていない。口先でハッタリをかます程度の、見窄みすぼらしいことしかできない。

 俺は冷めた目を華秧さやかに向け、スマートフォンを握りしめている手を前に出し、タン、と音が出るように画面をタッチした。

 それだけで、華秧さやかは息を止めたかのように動かなくなった。

「送ったと思いましたか?」

 華秧さやかの瞼が、頬が、肩が、足が、全身が震えている。これでいい。おまえにできる抵抗なんて何もない。

 明里に心のなかで礼を言って、俺はあらためて華秧さやかと向き合う。

 華秧さやかはざらついた息を吐きだし、意図的に迫力を出すような低い声で言った。

「……目的はなに」

 語調が強くても、心から余裕が消えているのが手に取るようにわかる。その目の奥には、たしかに恐怖が混じっている。

 俺は、できるだけ余裕を持った口調で不敵に言った。

「その手紙を返してください」

「は?」

「今先輩が握っている、その手紙です。それをその場で丸めて、俺に投げて返してください。そうしたら、俺も大人しくスマホを返します」

「……意味わかんない。スマホ盗んで、この手紙で呼び出して、手紙を返したらスマホも返す? そんなわけないでしょう」

「でも先輩は俺を信じるしかない。十秒以内にお願いします」

「ふざけな――!」

「十」

「っ……」

 華秧さやかは歯をギリッと鳴らし、くしゃくしゃになった手紙をさらに丸めてボール状にし、それを見つめる。

「九」

 さあ、どう出る。

「八」

 退路はった。

「七」

 俺のペースを崩すのにも失敗した。

「六」

 おまえにできることは何だ。

「五」

 華秧さやかは手紙をまだ見つめている。

「四」

 華秧さやかは手紙を左手で握りしめる。

「三」

 ピリピリと皮膚の表面が痛むような緊張のなか、華秧さやかは覚悟を決めたように息を強く吸いこんだ。

「二」

 やがて華秧さやかはボールにした手紙を小さく振りかぶり、

「一」

 投げた。

 と思った直後に、何かがもうひとつ、俺の顔にまっすぐ飛んできた。

「!」

 俺はとっさのことに一瞬息が止まりながらも、何とかそれをかわす。左耳のすぐ横で空気を切り裂くような鋭い音が通りすぎた。

 華秧さやかが手紙をふんわりと投げた瞬間、ポケットから右手でそれを素早く取りだしで投げるのを、俺は見ていた。

 刃が限界まで伸びた、誰もが一度は使ったことがあるだろうあの文房具。

『華秧さやかはカッターナイフをポケットのなかに入れてる』

 明里が教えてくれた、注意事項。

 

 退路を断ち、俺のペースを崩すことにも失敗した今、華秧さやかに残っている手札は俺が要求したその手紙しかない。だからこそ、その手札をタダでは手放さない。それを手放すこの瞬間こそが、反撃をする最後のタイミングだったのだ。だからこうすることはわかっていた。

 そして俺は、自分が返せと要求した手紙を無視して、カッターを避けたそのタイミングと同時に走りだす。華秧さやかから逃げるように、病院の奥へと駆ける。


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