きみが笑ってくれたから (8)


 呼び出すのは簡単だった。

 三日前、冬見先輩から話を聞いた昼休みのあと、俺は明里に頼んで華秧さやかのクラスと時間割を調べてきてもらっていた。顔もクラスもその時点では知らない華秧さやかが誰であるのかは、授業中に教壇に置かれているクラスの座席表をすべて見て回ってもらうことでわかった。普通の人間には姿も見えず、壁も通りぬけることができる明里には造作もないことだ。そして華秧さやかのクラスがわかったあとに、教室の壁に貼られている時間割を見てもらった。

 重要なのは体育の時間だった。ほかの教科と違って、生徒全員が必ず教室から出ていき、そして私物を置いていく時間。

 冬見先輩は、証拠は何もないと言っていた。きっと花散先輩を追いこんだ本人たちも、そんなものはすべて処分したと思っているだろう。でもそんなことはない。身近にありすぎて気付かなかったかもしれないが、何よりも大きな証拠がたしかにある。

 冬見先輩も言っていた。華秧さやかは普段はマジメな生徒として通っていると。つまり、授業をあからさまにサボったり見学ばかりしてだらけているわけでもない。ほかの生徒や先生から問題視されるような人間ではなかった。だからこそ華秧さやかが花散先輩をいじめたことを誰も知らなかったし、冬見先輩が糾弾したときも多くの人が華秧さやかを疑わなかった。一方的に批難されて、あまりの理不尽な物言いに耐えられなくなって泣いてしまう被害者。そういう構図ができあがっていた。

 証拠も挙がっていて援助交際をしていることが確定している尻軽な花散ともかとは違って、華秧さやかはまともなのだと多くの人に思われていた。

 華秧さやか本人も自分が疑われるなんて考えてもいなかっただろう。いや、ひょっとしたら一時期は警戒していたかもしれない。だけどそんな認識は徐々に薄れ、事件から半年もたった今では誰かに報復をされる可能性なんて、それこそ頭のなかにはまったくなかったはずだ。だから、マジメな生徒である華秧さやかは使いもしないスマートフォンを体育の授業に持っていったりはしない。

 金曜日である今日。その時間に合わせて具合が悪いと言って授業を抜けだせば、盗むのは簡単だった。画面ロックも明里に見張らせていたおかげで難なく解除できた。

 このなかには予想通り、花散ともかの写真の現物と、華秧さやかの仲間がホテルで撮られたという写真の両方。そして彼女たち四人が援助交際に関わっていた事実。さらには花散先輩を追いこむためにしていたほかの三人との連絡の取り合いをした形跡もありありと残っていた。これがあれば、クラス内に出回ったという花散先輩の画像が悪意を持って合成されたものだということが証明できる。

 そしてスマートフォンを盗むのと同時に、華秧さやかの机のなかに単純な手紙を放りこんだ。


『スマートフォンは預かった。返してほしければ、以下の条件を守ること。

 一、盗られたことを誰にも言わないこと。

 二、指定した時間に指定した場所へくること。一秒の遅れも許さない。またそのとき、この手紙も持ってくること。

 三、必ずひとりでくること。

 どれかひとつでも守れていないことをこちらが確認した場合、その場でスマートフォンに登録されているアドレス、グループと個人を含んだラインのすべての人間に、おまえがを自殺に追いこみ仲間とともに援助交際した証拠を送りつける。

                                花散ともかより』


 そして最後に、来るべき場所と時間を書いた、それだけの手紙だ。

 待っていると、俺がスマートフォンを盗った後からずっと華秧さやかを見張っていた明里がもどってきた。

「うん、七時間目の途中で抜けてここにきた。かなり焦ってるよ。一回学校出て、手紙忘れてることに気付いてまたもどって、結局走ることになってる。スマホ盗られたことも誰にも言ってない。間違いなく、ひとりだよ」

「……そうか」

 呼吸を落ちつけて返事をし、状況を整理する。

 二年生の俺の授業は六時間目までだが、三年生である向こうは今日は七時間目まで。授業を最後まで受けても走ればギリギリ間に合う時間にはしてあったが、授業を受ける気にもなれなかったろう。五時間目の体育で盗まれて、手紙の条件もあって誰にも相談できず、追いつめられた心情でくることになる。まあ、手紙を忘れず時間だけは余裕を持ってここへきたとしても、心に余裕なんか持つ暇はなかっただろうが。

 大丈夫だ。問題ない。

 カビと埃の匂いがする、以前は病室として使われていたであろう部屋の壁に寄りかかりながら、俺は自分の計画が崩れていないことを判断する。

 T病院跡。

 俺が手紙で指定したこの場所は、かつて学生のあいだで有名になっていた心霊スポットだ。いつもの下校道から逸れて住宅街を外れていくと、入り口がところどころ錆びついている古臭いトンネルがある。湿気の多いそこを抜けると、伸び切ったツタに絡めとられているような姿で、ここはある。

 現在は廃墟となっている病院。コンクリートの壁には至る所にヒビがあり、あちこち割れている窓は木の板で雑に塞がれている。建物のなかは見渡せばそこら中に落書きがあり、内装がいくつも剥げていた。壁が中途半端に壊され、瓦礫が散らばっている場所もある。医療器具などは綺麗さっぱりなくなっているが、薬品を入れていた棚や空になったガラス瓶、厨房にある耐震器具の外れた業務用の冷蔵庫、事務机や椅子はいくつか残っており、それらは床に散らばってたり倒れていたりとさまざまだ。事務室には十五年前のカレンダーがかかっている。建物全体が生いしげった木々に囲まれているせいで陽の光が満足に入らず、院内はどこも薄暗い。

 夜中になると女性看護師の幽霊が出る。霊感が強い人は頭痛に襲われる。秘密の地下室に行くと呪われる。心霊スポットとしては定番の、創作に尾ひれがついたようなそんな話を聞いたことがある。そういうことならば、パジャマ姿で浮かんでいる目のまえの死神も、さながら怪談にされる幽霊のようだ。

 だが、そうした噂話も月日がたつごとに風化し、今では誰も話題にすることなどない。あとには、ただ不気味な空気を漂わせているだけの朽ちた建造物だけが、誰にも見られることなくこうして残されているだけだ。ゆえに人気ひとけはまったくなく、死神の力を使って人を殺すのには最適の場所と言えるのだ。

 ……そう。最適。今から俺はこの場所で、生身の人間と相対して、その人間を殺す。いよいよそのときがきたんだ。

 冷静になれと、脳みそが身体に告げる。だけど心臓は、命令に反するように牙を剥いて獰猛に唸るばかりだった。呼吸に、焦りがでてくる。

「……やっぱり怖い?」

「えっ……」

 不意に明里が、俺をじっと見つめながら言った。そうやって見られていることすら、全然気づかなかった。

「怖いって……何がだ?」

「人を殺すことがだよ」

 心のなかを見通すように言われて、ドキリとした。

「あたしとしても意外だったんだよ。優ってもっと消極的なタイプだと思ってたからさ。相手を殺すために授業サボって上級生の教室に忍び込んで私物盗むって、そんなアクティブなことできるんだなって。マンガとかじゃそういうのあるかもしれないけど、実際にやるって結構勇気いるんじゃないかなーって思ってたんだけど。やっぱりキツいんだ」

「……そりゃそうさ」

 明里の言うとおり、きっと前までの俺ならこんなことはできなかっただろう。実際さっきだって――マジメだったかはともかくとして――今までサボることなく出席していた授業を抜け出すというだけでもすこし嫌な気分がした。壁一枚隔てた向こうにほかの生徒たちがいるなかで自分だけは誰ともすれ違わない廊下を歩いているときは、よく似た知らない場所にいるような居心地の悪さを感じた。そのうえ普段は行かない上級生の教室にまで忍びこんで、他人の制服を漁ってスマートフォンを手にしたときは、誰かに見られてないかという不安と恐怖が胸のなかにうごめいていて、ありもしない視線を感じていたような気さえしていた。

「……明里の言うとおりだ。人を殺すってのは、死神の明里にとっては大したことじゃないのかもしれないが、人間の俺にとっては大変なことなんだ。一度殺したら、もう後戻りなんてできない」

 そうだ。ほんとうは怖い。人を殺すという責任を負うことが、とても怖い。きっと一度殺してしまったら、自分は前までいた場所に戻れなくなる。たとえ普段どおりに振る舞っていても、『人を殺した』という事実が永遠に心にのしかかって、呪われたような気持ちで日々をすごしていくに違いない。……だけど。

「だけどな、それを覚悟してでも殺すと決めてしまったなら、授業を抜け出したり、人の物を盗む程度のことで臆してる場合じゃないんだ。そんなことさえできないようなら、このあとずっと殺し続けるなんて、結局怖気づいてできやしないんだからな」

 仮にできたとしても、それは殺人の責任をすべて明里に押しつけるという最低の行為になってしまう。

 殺したのは明里だ。俺は手を下してなんかいない。

 心のなかでそう念じて、自分は悪くないのだと言い訳してしまう。

 だから俺が直接手を下すこの行程は、たとえつらくても必要なものなんだ。

 人を殺す。生きている価値のない人間を殺す。そいつは生きていてはいけない。

 。いつしか、そんな義務のような考えに脅迫されて動いていることは心のどこかで理解していた。

 でも――いや、だからこそ止められなかった。だってそれができるのは、偶然にも明里という存在と関わりを持てた俺だけなのだから。

 たとえおそろしくても、やめちゃいけないことなんだ。

 理不尽に殺される人を、ひとりでも少なくするために。

「ふーん、そっか」

 明里の反応は素っ気なかった。理解されたかはあやしいが、表面上で納得だけはしてくれた。ひょっとしたら深く聞くのもメンドくさかったのかもしれない。

「ああ、そうそう。それから――」

 明里が、これから華秧さやかと対峙するにあたって注意事項をひとつ教えてくれた。

「わかった。じゃあ行くぞ。このあと、頼むな」

「うん、任せて」


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