きみとの距離 (2)



 けれどその『世界』は崩壊した。

 俺と彩香が中学生になり、彩人がまだ小学六年生のとき。夏休みに入ってすぐのことだった。

 公開されたばかりのアクション映画を見にいき、まだ劇場にいたときの興奮が冷めないなかでの帰り道だった。印象に残った場面や好きな台詞を言いあいながら楽しく歩いていた。

 もう一年もしないで中学生になろうってのに、まるで子供のように映画の場面を身振りで再現しながら楽しむ彩人の姿を、彩香と一緒に見ていた。俺たちも、そんなあいつを見ていられるのが嬉しくて、幸せに浮かれていて。

 だから――彩人が横断歩道に飛び出たことが危険だなんてことすら、頭にはなかった。

 信号は、青だった。

 なのに、心臓を内側から叩きならすようなクラクションの音が聞こえて、赤信号の向こうからスピードをゆるめない大型トラックが突っこんできた。

 彩人の身体が人のカタチでなくなる瞬間の生々しい破壊音が、今でも忘れられない。

 その一瞬のできごとによって、すべてが壊された。

 俺の心も、彩香の心も、俺たち三人の『世界』も――彩人そのものも。

 その瞬間は、時がスローモーションに見えた。

 彩人モノを見ていると、またたく間に、内側からマグマがあふれ出したように身体が熱くなって、汗がびっしょりとまとわりついて……だから、目のまえで起きたできごとが冷静にとらえられなくて。パニックを起こしたトラックが逃げるように走り去るのを、まだ理解の追いついていない目の端でとらえていた。ナンバープレートを見る暇も余裕もなく、ただ眼前にある光景に目が離せなくて。

 そして時の流れが元に戻った瞬間の――彩香の喉が裂けるような叫びを聞いて、ようやく爆風のような熱気が全身を駆けめぐり、俺は正気を失った。

 そこから先は記憶が曖昧だ。警察と救急車がどちらもきていた気がする。何かいろいろと聞かれたような気がするが、よく覚えていない。だけど、変わりはてた彩人の、人としての形をとどめない何かは、まるでまばたきを許されない眼球に焼きごてでも押しつけられたかのように、しっかりと目に焼きついていた。

 そこから先の数日は、よくわからなかった。あの数日は知らない場所にばかり行ったから。聞き慣れない言葉を聞いて、見たこともない物ばかり見て、ただ親という大人についていくだけで、何をしているのかさっぱり理解できなかった。線香のにおいが漂う知らない場所で小さな葬儀をやって。

 そして数日したら、すべてが元通りになった。聞き慣れない言葉も、見たこともない物を見ることもなくなった。それまですごしていた夏休みにもどっただけだった。

 ……もどっただけ。でも、そこは知らない場所のようだった。

 快晴の空も、雨雲が覆う空も、みんな同じような灰色に見えた。すれ違う人の足音や子供のはしゃぐ声が、空の彼方かなたから流れてくるように遠く聞こえた。

 自分の日々を彩ってくれたやつがいなくなってモノクロと化した『世界』は、心をごっそりと削りとり、生気を根こそぎ奪っていく異質な場所となっていた。そしてその異質な『世界』にいるあいだは、ことあるごとに彩人の変わりはてた姿を思い出して、そのたび吐き気と恐怖が胸の底から這いあがった。悲しいとか悔しいとか寂しいとか、いろんな感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、もうよくわからなかった。ひとつ言えるのは、そこにプラスの感情は一滴も混ざっていないということだった。

 そうして俺は、部屋に引きこもった。父さんと母さんに心配をかけながら、そのくせ二人の声すら聞かないようにしていた。布団を頭まで被り、シーツを爪が食いこむほど握りしめ、すべてを拒絶した。何も見ないよう、何も聞かないようにした。それ以上、外の世界に触れたくなかった。

 ドアのこちら側だけが『世界』のすべてなんだ。向こう側には恐ろしい世界が、獲物を喰らおうとする獣のように牙を剥きだしにして待ちかまえているんだ。怖い。怖い! これ以上俺たちの『世界』を汚さないでくれ。俺たちの『世界』から色を奪わないでくれ。俺たちの『世界』を壊さないでくれ!

 ついには不自然な幻聴や幻覚を感じることさえあり、正気というものが消えてなくなりそうだった。寝苦しい夜に苛まれ、不安定な呼吸に苦しみ、自分がどこで何をしているのかさえわからなくなりそうなほどに頭がぼんやりしはじめたころ。

 ふと頭をかすめたのは、彩香の姿だった。彩香はどうしてるだろう。どこにいるのだろう。家に引きこもってからずっと会っていなくて、連絡さえ取っていない。

 彩香に会いたい。無性にそう思った。

 俺の『世界』には、まだ彩香がいる。彩人がいなくなって、前までの『世界』にもどることは決してできないけれど……ひょっとしたら二人なら、すこしは修復できるかもしれない。そうだ、それがいい。こんなところにひとりきりでいるよりも、二人でいたほうがいいに決まってる!

 泥の詰まったような重たい身体を動かし、希望へすがるように自室のドアに手を伸ばした瞬間。

 ドアの向こう側からどす黒い世界が、俺に似た声でささやきかけてきた。

『彩香は今、どうしてると思う?』

 身体がまた動かなくなった。それから、刃物の先で首の皮を撫でられるような恐怖が身を包み、全身から冷たい汗が出てきた。

 ? それは、あまりに簡単に想像ができた。

 きっと、俺と同じだ。自分の部屋に引きこもり、外の世界を拒絶しているのだ。いやひょっとしたら、それすらロクにできていないかもしれない。だって彩人は、十年以上同じ屋根の下で暮らしてきた血のつながった家族で、自分のほかに唯一存在していた姉弟だったのだ。そんな存在がいなくなってしまうなんて、自身の片割れを失うも同然じゃないか。しかもその家には、弟が存在していたという痕跡がそこかしこに残っているのだ。部屋を一歩出るだけで、きっとそれは見えてしまう。あいつがいたという痕跡が、その姿の幻が、目の前を横切ってしまう。安らぎのない場所で、彩香はずっとひとりで苦しみ嘆き続けているんだ。

 そんな彩香に会ったところで、俺に何ができる? 何を言えばいい? 同じように心に傷を負った俺なら、彩香に対していたわりの言葉をかけられるか? 同じ苦しみを持っているから、慰めの言葉をかけられるか? 詭弁だ。痛みと苦しみしか持たない心が出す労りや慰めの言葉なんて、あまりにも空々そらぞらしくて虚しいだけだ。

 どんな言葉もかけられない。何をすることもできない。

 でも! このままだと何も変われない! 俺も彩香も、ずっとこの薄暗い『世界』にいるしかない。そんなのは耐えられない!

 だから俺は、意を決してドアノブを握り、部屋の外へと飛びだした。

 そこはまだ自分の家なのに、まるで立ち入ってはならない場所にきてしまったような違和感と恐怖を覚えながら、足を一歩ずつ進めた。ようやく外の空気を浴びると、今度は身体が痺れるように痙攣しはじめた。心臓がすべてを拒否するように暴れまわり、呼吸がさらに不安定になり、身がすくみそうになった。知らない誰かの声が聞こえるたび、子供のはしゃぐ声が耳をすり抜けるたび、吐き気がこみ上げてその場にうずくまりそうになって、頭が正常に動かなくなりはじめていた。

 もう俺自身のためなのか、彩香のためなのか、何のために歩いているのかわからない。それでも、砂漠のなかで一滴の水を求めるように、彩香のもとへ向かわずにはいられなかった。

 やがて、無限にさえ思えた道のりは終わり、彩香の家に辿りつけた。最後にきてから一ヶ月もたっていないのに、いやに懐かしく感じて、目の奥が熱くなった。

 会いたい。早く彩香に会いたい。会わなければいけない。

 インターホンを押すと、彩香のお母さんが出てきた。俺がひどく憔悴していることを心配してくれたが、彩香に会いにきたと告げると……一瞬だけ顔をこわばらせ、口元を不安げに動かしたあと家に上げてくれた。それだけで、彩香の様子が俺の予想を外れていないのだと確信した。それでも家に入れてくれたのは、ひょっとしたら幼馴染の俺が娘を立ちなおらせてくれるかもしれないと、すこしでも期待したからだろうか。実の息子を失い、失意の底にいる自分にはできないことを、俺ならやってくれるかもしれないと。

 俺は、その期待に応えられる自信なんてこれっぽっちもなかったというのに。

 階段をのぼり、部屋のドアをノックし、返事が聞こえないことにも構わず、ドアを開けた。そうして俺は、焦がれるほどの願いだった彩香との再会を果たした。

 結果は……予想通り。俺はあいつに、何も言えなかった。

 カーテンを閉めきり、電気もついていない真っ暗な、ほこりのにおいのする部屋のなかで、彩香はひとり、ベッドの上で枕を抱いて座っていた。髪からツヤは消え、ボサボサに乱れていて。顔もやつれ、くまができた目にはいまだに腫れがのこっているほどの、ひどい顔で。飢え渇いた死人のような目で、俺を見ていた。

 その顔を見た瞬間、自分の身体のすべてが止まってしまったような気がした。脳も、血も、心臓も、そのすべての機能が停止し、空間そのものに縫いつけられたように、身体を一部分たりとも動かせなくなっていた。目のまえにある、その事実だけを突きつけられたまま。

 世界には、衣食住に困っている人や、死の淵にいる人や、もっと過酷な環境や状況に追いこまれている人がたくさんいるはずだ。

 だけど、俺たちがすごしてきた日常は、いつも俺たち三人が中心になっていた。まだ精神的にも未熟で幼かった俺には、実感できる『世界』というものが自分のまわりにしか存在しなかった。だからあのとき。

 彩香は間違いなく、『世界』で一番絶望している人間だった。

 世界は、俺たちの『世界』のすべてを侵蝕していた。

 口を開こうとしたけど、吐息しか出てこなかった。駆けよろうとしたけど、足が動かなかった。何も言えない。何もできない。労わることも、慰めることも、抱きしめることも、その細い手を包みこむことさえできなかった。

 もうダメだったんだ。三人が揃っていてこそ完成されていた『世界』は、ひとりが欠けてしまったことにより、すべてがボロボロに崩れていた。

 そのことを、どうしようもないほどに理解した。

 この瞬間からだ。俺が世界を憎むようになったのは。

 俺たちが何をした。彩香が何をした。そして彩人が、いったい何をした。

 何もしていない。少なくとも、あんなふうに命を奪われるような罰を受けるほどのことなんて。

 何の罪もない人間が、不条理に殺される世界。その死によって、近しい人の心さえも殺す世界。

 俺たちの『世界』を壊した世界。そんなくそったれな、理不尽な世界。



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