四章 きみとの距離

きみとの距離 (1)


 五十鈴見彩人いすずみあやと

 四年前の夏までいた、彩香の一個下の弟の名前だ。小学一年生のときに彩香と出会い仲良くなり、たがいの家に遊びにいく間柄となって、はじめて知りあったのだ。それからしばしば彩香の家へ行き、一緒に遊ぶことで親しくなっていった。学年が上がって彩人も小学生になり、登下校も一緒にするようになってからは、三人で過ごす時間が一気に増えた。家に帰っても両親がいないことが多かった俺にとって、二人と過ごす事こそが至福の時間だった。

 毎日のように三人で夕方まで遊んでは帰って、また次の日も、その次の日も。三人でできる遊びやゲームを何度もやって。三人がいれば、同じことだっていくらでも楽しめた。三人が一緒なら、どんなことだって七色にきらめく幸せのかけらに変えられた。

 三人。三人。三人。

 誰が欠けたって成立しない、けれど全員が揃っていれば、何にも変えられない完成された『世界』があった。将来への不安なんか微塵もなくて、ただ生きているその瞬間がいつも眩しかった。

 彩人は一言で言ってしまえば、小動物みたいなやつだった。甘えん坊で姉にべったりの、実年齢以上に幼さを感じる性格は、そのまま容姿にも反映されていたと思う。気弱なところもあったし、身体も弱かったけれど、俺たちといるときは春のひだまりみたいに無邪気な笑顔をいつも振りまいていて、俺にとっても可愛い弟のようだった。


 ――兄ちゃん。


 一人っ子の俺にとって誰かに兄弟のようにそう呼ばれるのは、最初は歯がゆかった。でも段々と打ちとけていくうちに、その呼びかたがとても近い距離を感じさせて、次第にくすぐったいと思えてきた。そんなくすぐったさも、はてには純粋な嬉しさへと変わっていったのだけど。

 小学校の高学年にもなると年相応にマセて、「姉ちゃんと兄ちゃんは将来結婚しなよー」なんて茶化してきて、彩香と二人で顔を赤くしていた記憶がある。俺は兄という役回りとして普段は彩人より上の立場だったけれど、そういう話題に関してだけは弱かった。年下のくせにそういったことにだけ調子に乗ってはしゃいで、にこにこと笑ってきて、まったく生意気なやつだった。

 彩香もそんな彩人のことを溺愛していて、家族としてとても大切にしていた。もともと面倒見のいい性格で……いや、それは彩人がいたからこそだったのだろう。「あーくん」と呼んでよく頭をなでていたのを覚えている。そうして安心するように顔をほころばせる弟を、何より愛しく感じていたに違いない。病弱な弟とは逆に身体が強かった彩香は、彩人の看病をしながら自分の皆勤賞をよく自慢していた。

 ときにはケンカだってした。

 たとえば小学五年生のときからはじめなければいけなかったクラブ活動。俺は彩香を誘って一緒にコンピュータクラブに入ったけれど、機械に弱い彩香にとっては大層つまんないものだったらしく「六年生になったら絶対違うのにする!」と言って聞かなかった。わからないところをどれだけ教えてもうまくできず、自分だけ置いてけぼりになるように感じたのか、ついには泣きだしてしまうこともあった。

「彩香って機械使うのヘタクソだよなー」

 あのときは、思ったことをなんのためらいもなく口に出しても、心が痛むことなんてなかった。そんなことを言ったら相手を傷つけるとか怒らせるとか、自分が嫌われるとか、いちいち怯えたりしなかった。

「ち、ちがうもんっ。優はほかの子よりうまいよ。私がふつうなんだよっ」

「いや、彩香はとくべつヘタ」

「もう! 優って、名前のわりにぜんぜん優しくないよね!」

「ほっとけ!」

 たがいに思う存分吐きだしあって、何度でもケンカして、何度でも仲直りした。

 彩香が「あーくんは優みたいになっちゃだめだよ、パソコンオタクになっちゃうよ」とくどくと言っていたけれど、学年が上がってから彩人は、俺と同じコンピュータクラブに入った。テレビゲームで遊ぶことが好きだった当時の俺たちにとって、パソコンはSF映画に出てくる未来道具のように心惹かれる物だった。どのキーを押せばどうなるのか。このアイコンは、このサイトはいったいなんなのか。この文字列はいったい何を意味するのか。

 ハッキングの基礎となるプログラミングに興味を持ちはじめたのもこの頃からだった。このときはただ純粋な意味で楽しんでいて、いじってもいじっても一番奥が見えることがなく、いったいどこまでのことができるのだろうかとワクワクしていた。

 そうして俺は、仕事部屋にある父さんが使っているパソコンを、父さんが家にいないあいだだけ使わせてもらい、自分の家でも彩人と二人で没頭していた。だからそばで彩香は「ふたりしてパソコンばっかりー」とブーたれていた。機械に弱い彩香を二人でからかったり、そのあとで彩香に手痛い仕返しを食らうのも定番で――

 でもサイトを検索しておもしろ動画なんかを見ているときは、家族三人でバラエティー番組を見るように彩香も笑ってくれた。

 俺がテレビゲームで対戦をしたいと言えば、彩香と彩人は目を輝かせてコントローラーを手にとった。彩香が外で遊びたいと言えば、俺と彩人は笑顔で公園に飛びだした。彩人が漫画のキャラクターをマネて戦いごっこをしたいと言えば、俺と彩香は心をおどらせて違う人物になりきった。

 やりたい遊びが違って、好きなものが違って、価値観が違う。

 ケンカになっても、次の瞬間には自然と笑顔になってしまう。

 そんな魔法が、俺たちの『世界』にはかかっていたのだ。

 だから俺たちの『世界』は前も後ろも、みんな幸せに輝いていた。

 三人でいられることはこの世で一番の奇跡で、三人で笑いあえることは人生で最高の宝物で、三人で作ったあの『世界』はどんな楽園にもかえられない絵本のなかの理想郷に違いなかった。

 ほんとうに幸せな日々だった。

 難しいことなんか考えないで、ただ純粋な気持ちで、いつも笑っていられた。



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