きみと出会ってかわったこと (4)


「……ったはぁ……っはぁ……。…………」

 ……静寂が、もどる。まるで、さっきゴミ箱を蹴っとばした直後みたいだ。まだ息を切らしているせいで、冷静な思考は完全にはもどっていない。

 あぁやべっ、さっき転んだせいで服もよごれちまってる、着替えなきゃ……。

 そう思い、すぐに起きあがって腰をあげる。

 でも、さっきのは一体なんだったんだ。人が、浮いて――

「ちょっとっ!」

「うわっ!?」

 せっかく浮かせた腰が、またボフンとベッドに沈む。顔をあげるとそこには、さっき撒いたはずの怪異少女が!

「おまっ、どうやって家んなかに!?」

「えっ? いや、普通にすり抜けて」

 そういって彼女は、。しかしその腕は、まるで水面に手を入れるようにすっと、。水面と違って、波紋すら立つことはなかったけれど。

 いや、普通にすり抜けてって。普通はそんなことできないんだよと、きっぱり言ってやりたいくらいだった。バイト帰りという疲労状態の中で全力疾走までして、そのうえ自室まで逃げこんだのに、追いこまれて。俺は完全に逃げ場所を失い、この妙ちきりん少女と対面するしかなかった。

 しばらくは息をすることすらままならなかったが、もうヤケになってしまった。たまらなくなって、さっきまで頭に浮かんでいた疑問をすべてぶちまけた。

「……ていうか、おまえは誰で、何で浮いて、すり抜けることができて、変なことまでほざきはじめて、俺に近寄ってくるんだよ!」

「だから、さっきからそれを説明してたのに……」

 ため息を吐きながらそんなことを言う。追いかけられてる途中のことなら、怖くて無我夢中でまったく聞いてなかったぞ。

「いい? もう一度言うから、よく聞きなさい」

 そう前置きして、さっきと同じようにコホンッとわざとらしく咳払いをして、さも誇らしげに、まるで子供が自慢でもするかのように胸に手をおいて、


「あたしはね、死神なの」


 死神少女は、そう言った。

 もう何がなんだかわからなくて、アホみたいに目も口も開いて茫然とするばかりだ。頭の中がいろんな感情でうず巻いていて、思考がまとまらない。

 そんな俺を見かねたのか、それともこのままじゃ話が進まないと思ったのか、彼女はしかたないとでも言うように息をまたひとつ吐き、いきなり告げたのだった。

茅野明里ちがやのあかり

「はっ?」

「あなたに呼んでもらうためのあたしの名前。何もないんじゃ呼びづらいでしょ? ……まあ、これは偽名なんだけど」

「何で偽名なんだよ」

「人間みたいな名前のほうが呼びやすいでしょ? 要するにこれは、あたしが人間と接するときに使ってる名前なの」

「はぁ……」

 死神事情ってやつだろうか? だとしたら、人間に対してずいぶん都合のいい事情だ。

「で、あなたの名前は?」

「え、と……柘植崎優つげざきゆう

「じゃあ優。何か聞きたいことはある?」

 いきなり名前呼びかよ、と心のなかで文句を言っておく。

「そうだな……。じゃあちが――」

「ちなみにあたしのことは『明里』と呼ぶこと。苗字で呼んだらブッ殺す」

「――」

 血の気が引いた。たった今、「じゃあ茅野」と呼びそうになったってのに。自称しているモノがモノだけに、軽い口調でも「ブッ殺す」という言葉がシャレに聞こえない。っていうかふざけんな。だったら最初から苗字なんかつけるなっつの。寿命が縮んだわ。

 しかし、すこし年下に見えるとはいえ会ったばかりの女子を名前呼びにするのは……正直ものすごく抵抗がある。いや、人間じゃないというならその扱いも間違っているのかもしれないが、とにかく外見が人間している女子を名前呼びするのは抵抗があるのだ。

 しかし……質問。山ほどある。いっぱいありすぎてどれからどれから聞けばいいのかもわからないくらいある。でもそれ以前に、何かもう関わってほしくない。それが本音だ。でも、どこかに行ってくれそうにもない。

 だから俺は、できるだけ冷静になろうと深呼吸をし、目の前の少女、茅野明里をじっくりと見る。思えばさっきまでは、パジャマを着ていることや浮いていることにばかりに気をとられていて、顔をしっかりと見るのは、今この瞬間がはじめてだ。

「えっ?」

 ところがその顔を見た瞬間に、俺は目を疑った。

「彩香……?」

「はっ? 誰?」

「あ、いや、悪い。幼馴染にすげぇ顔が似ててさ……」

「あんた目のまえに女の子がいるのにべつの女の名前出すとか、死んだほうがいい人間ランキングの上位に入るんだけど」

「やめてくれ、死神に言われると怖さが……。ていうか人間じゃないのに女の子ってなんだよ」

「死神でも性別はメスよ」

「メスって……」

「で? あたしが誰と似てるって? ん?」

「すいません、何でもありません」

 しかし、目鼻や口といった顔のパーツだけは本当にそっくりなのだ。

 全体的な部分となると、たしかに違うところはいくつもある。ひとことで言うなら、明里のほうが不健康そうだ。血色のほとんどない病的に白い頬。骨が透けて見えそうなほどに細い手足。それに、乱雑に降ろされた中途半端に長い髪。こうしてみると……すこし人間味がなさそうに見える。年季を重ねた病人のようだ。

 死神。人とは違う存在。

 俺は覚悟を決め、茅野明里をまっすぐに見据えて質問を開始した。

「ちが……えっと、明里は、何で浮いてるんだ?」

「死神だから」

「死神だと浮けるのか?」

「浮けるね。デスノートの死神だって浮いてるでしょ?」

「何で日本のマンガに明るいんだよ」

「のぞき見は趣味」

「最悪だな」

 でもなんだか納得できる。マンガやアニメに出てきそうな超常の存在ってのは浮いてても何の違和感もない。

「ただ、のぞき見ってなんでだ? 直接触って読めないのか?」

「読めないね。死神はものにさわれないから」

「触れない?」

「そ。さっきの壁の通り抜けも、正確に言えばぶつかることさえできないんだよ。物も人も例外なく、何にも触れない。『なんでやねん』って言って優の頭も叩けないし。そこはデスノートの死神とは違うね」

「いちいちデスノートを例に出さなくていい」

「とりあえずもいっかい見せてみようか。……なんでやねん!」

「うわっ!」

 明里が俺の頭を叩いた……と思ったら、その手は空振りするようにすり抜けた。いや、明里の感覚からすればほんとうに空振りしたのだろう。

「それから……えいっ」

「へっ?」

 キスされた。いつの間にか明里の顔が真ん前に、いやそれにしてもあまりに近くて――

「うわああぁぁぁ!? 何すんだいきなり!?」

「そんなおどろかなくても。……はじめて、だった?」

「急にしおらしくなるな、演技なのはわかってんだよ! あと若干顔めり込んでたからな!」

「でもほら、これでわかったでしょ? 死神はものに触れないの」

「あ、ああ……」

 しかし何だろう。いくら空振りでも相手の腕が通過したり、顔がめり込むくらい近くにあったにしては違和感があったような……いや、自分の身体を何かがすり抜けるなんて経験は当然ないのだが、それにしてもこう“何かがすり抜ける感覚”みたいなのがあってもいいような……。

 そこまで考えてわかった。

 感覚がまったくない。なさすぎるんだ。明里の手や顔に触れた感覚はもちろん、明里の身体が動いたことで生まれるはずの空気の動きや、人間にあたりまえにあるはずの体温やにおい。そういったものが、身体がめり込むくらい近くにあっても、死神からはまったく感じとれないんだ。

 まるでここに存在していないように。

「…………」

 いよいよ人間じゃないってことに、現実味が出てきた。現実味のない存在に現実味が出てくるなんて、おそろしい話だ。

「……いや待てよ」

「ん? どしたの優?」

「つまり、こうすれば……」

 俺は目をつぶり、耳を塞ぐ。

 そう。死神とはつまり、空気のような存在なのだ。触れても体温を感じず、においもせず、気配もない。どれだけ暴れてもそよ風ひとつ吹かない。近くにいるはずなのに、まるでテレビの向こう側にうつっている人のように、その存在を、姿と声でしか、目と耳でしか確認できないのだ。

 つまりこうして目と耳を塞いでしまえば、死神の存在を感じることはできなくなる!

 やった! 勝ったぞ俺! これでこいつは俺に何もできない! 多少の声は聞こえるかもしれないし、俺の気を引こうと変なコトを言ってくるかもしれないが、そんなのはシカトすればいい。このまま三十分でも一時間でも待って、こいつが退屈になっていなくなるまで我慢するだけでいいんだ。それにもう夜も遅い。俺がそのまま寝てしまえば、今おきている出来事はすべて夢だったということでかたづけられる! さあ去れ死神! 俺はもうお前に屈しない!

「へぇ、こんなビデオがあるんだ……。言いふらすのは家族と、クラスメイトと……」

「待てコラぁ!」

「うわチョロっ」

 我慢の限界だった。自分の忍耐力のなさに涙が出そうですらある。

 何だよこいつ、さっさと消えろよ!

 明里はブーたれた顔で俺を睨みつけてくる。

「なによぉ。どうせ死神なんてそこらじゅうにいるんだから、きっとほかのやつにだって見られてるよ」

「……おい、今サラッとすごいこと言わなかったか」

「ん? 何を?」

「死神がそこらじゅうにいる?」

「うん。少なくとも十億はいるんじゃないかな? 百億いたっておかしくないかも。あたしがここにいるあいだにも、この部屋を通りすぎてった死神はたぶん三人くらいいたし」

 耳を疑った。そして、すこし遅れて身がさっとこわばり、思わずあたりを見まわす。そこには見慣れた自分の部屋の景色があるだけで、どこにも人影はない。

 億? 十億って言ったか? 百億いたっておかしくない? もしそうだとしたら、地球上の人間の数よりも多いじゃないか。想像を絶する数に、息がとまりそうになった。

「まあ、あくまで憶測だけど。死神は群れることはまずないから、単独行動が多いんだよね。それにその姿は、基本的に人だけじゃなくて、同じ死神にも見えないし。せいぜい気配を感じられる程度だもん。だから正確な数はわからない」

「人にも、同じ死神にも見えないって……じゃあ何で俺には、明里が見えてるんだよ?」

「あたしが見せてるからだよ。死神は自分の姿を見せたい人には見せられるの。ほら、幽霊って言われてるものがあるじゃない? ああいうのって、人にイタズラしたい茶目っ気あふれるあたしみたいな死神が、人をおどろかそうとして姿を見せたり、声を聞かせたり、写真にうつったりしてるだけなの。いやぁ自分を怖がって大声あげてるのを見るのも、なかなか楽しいんだよね~」

 おい。世に言われてる心霊現象の一部っておまえの仕業か。はじめて会うとき、耳元で「わっ!」と叫んだのも、俺をおどろかすためかこの野郎。

 と、そこまで考えて、俺はようやく重大なことに気付いた。

「……え、じゃあ、いわゆる幽霊って、本当の正体は死神ってことなのか?」

「そうだよ。幽霊っていうのは、死神を見た人間が死者の霊魂とか勝手なことを言って定義づけたものにすぎない。この世に幽霊なんて存在しないんだよ。そこをはっきりと認識しといて」

「幽霊じゃなく、死神……。でも、それじゃあ死神と幽霊に変わりなんてないじゃないか」

「だから、死神は死者の霊魂なんかじゃないんだって」

「そりゃそうかもしれないが」


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