きみがいなくなること (3)



「ねぇねぇ聞いて!」

 一学期の最後。終業式を終え、多くの学生が長い休みの到来に気持ちを浮つかせ、晴れやかな気分で下校する真夏の曇り空の下。湿った空気をさわやかに吹きとばすように、彩香がはずんだ声で話しかけてくる。

「昨日ね! お父さんの知り合いが務めてる病院で、危篤状態にあった患者さんが一命を取り留めたんだって! 交通事故だったんだけどね? まだ若い男の人で、ずっと危ない状態だったんだけど、ようやく意識がもどって家族の人たちとも話せるようになったって! ほんとうによかった……」

 あたたかい息遣いから、まるで自分のことのように心の底から喜んでいることがはっきりわかる。この幸福をすこしでも多くの人に分け与えたいとさえ思えるような、ほんとうに感情があふれてたまらない声だった。

 会話もしたことはない人だろうが、それでも助かったことはとても喜ばしいのだろう。

 俺としても彩香の笑顔が見られることは嬉しい。それに、何の罪もない人が助かるならば、それほど素晴らしいことはない。

 明里の言葉を思い出す。ひょっとしたらこれが、天使という存在の力なのだろうか。

 死神が理不尽を起こし、人に危害を加えるものならば。

 天使は奇跡を起こし、人に救いをもたらすもの。

 もしその危篤状態にあったという男性を、奇跡の力で回復させたのだとしたら――

「奇跡って、あるんだよね」

 不意に彩香がそう言って、ドキリとした。

「あ、突然変なこと言ってゴメンね?」

 おどろいた俺の顔を見て、彩香は焦ったようにパタパタと手を振ってから、優しく微笑んだ。

「でも……こういうことがあると、思っちゃうんだ。世のなかには、ちゃんと奇跡はあって、それを与えてくれる存在がいるんだってこと……。もちろんそれだけじゃないよ。生きようとする努力とか、意志とか、そういうものがあるから、ちゃんと生きていられるんだってこと。そういう希望を捨てないでいてくれることも嬉しいし、そう願って助かってくれたら、もっと嬉しい」

「…………」

 もちろん、偶然なんだろう。

 死神や天使は、基本的に人間と関わることはないのだと明里が言っていた。明里のようなやつが例外なのだと。もし仮に姿を現すとしても、せいぜい心霊写真や幽霊スポットのいたずらだとか、そんな程度だと。

 彩香が死神や天使の存在を知っているはずはない。彩香はもとから、こういう優しくて前向きなやつだ。だからこそ看護師を目指して、今も家の手伝いとして診療所で働いている。

「たとえどんなことをしたって、人が生きてくれるのは嬉しい。人が死ぬのは、それだけで悲しいから」

 ズキリと、心臓が痛む。

 人が助かるのは嬉しい。彩香が喜ぶのも嬉しい。その心に嘘はない。

 だけど、自分はその裏で人殺しに手を染めているのだ。悪いことをしているつもりはない。ただ、人の救いかたにも種類があるってことだ。天使は人を救うことで救い、死神は殺すことで救う。ほかの死神に救うつもりはなくとも、明里のような存在ならそれができる。

 それだけのことだ。そう割り切れるはずだ。……だから。

「……死んだほうがいいやつだって、いるんじゃないのか」

 彩香の息が止まった。

 自分の声に生気がないのが、はっきりとわかる。

 だけど心はひどく乾いていて、声は街灯に焼かれた虫の死骸のように捨てられていく。

「生きていても害にしかならないやつとかさ……。人を傷つけるだけのやつとかさ……。むしろそのほうが世のなかや人のためになることだってあるだろ……」

「ち、ちょっと優、なに言ってるのっ……?」

 そう。だから。こんな発言をしたところで、気に病む必要はないはずなのだ。

「幸せな人を理不尽に殺すやつとかさ……そんなやつなら、死んだほうがいいんじゃないか……?」

「優っ!!」

 グラッと強く身体を揺さぶられて、ハッとする。

「どうしたの……? 何かいやなことでもあったの……? ひょっとして、バイトでなにかあったの?」

「あ、いや……」

 なぜか、言葉に詰まる。どうしてか、とてつもない失敗をしてしまったような――

 彩香に、今にも涙を浮かべそうなほどの心配そうな顔をされて、頭がぐちゃぐちゃに混乱して、慌てて取り繕う。

「悪い、何でもない……。なんか、ちょっと疲れてたみたいだ……」

 数秒前までの自分が、別人みたいに思えた。意識はさっきまでもずっとあったはずで、そのときのこともすべて覚えている。捨てた言葉は自分の本心でもあるはずだ。なのに。

 なのに、どうしてこんなにも不安なんだろう。身体のなかの血が急に濁りだし、心がざわついて落ちつかない。

 それから一言も話すことなく、分かれ道でぎこちない別れだけを口にして彩香と別れた。そそくさと逃げだすように歩き、一度も振りかえらないようにした。きっと振り向いたら、悲しく潤んだような気遣わしげな目で見られてしまう。それは無性につらかった。

 身体の奥がヒリヒリするような感覚に苦しみながら、息苦しい家路を急いだ。



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