きみが笑ってくれたから (4)


 十二月のその日は、強い雨が降っていた。冬見先輩は、バドミントンの部活動の休憩中、飲み物を教室に忘れていたことに気付き、渡り廊下を小走りに走っていた。そのとき、まるで何かから逃げるように昇降口から飛びだしてきた花散先輩を見たのだ。雨のなかで傘も差さずに走っているその姿を一目見て冬見先輩はすぐに異常を感じとり、ずぶ濡れになることもためらわず自分も駆けだして、花散先輩のことを呼んだ。

『ともか!』

 声を聞くと花散先輩は立ちどまり、ゆっくりと冬見先輩のほうを見た。

 花散先輩は、涙を流していたという。悲しみなんていうものをとっくに通りこしてしまった、何もかもに疲れはてて希望を失くした顔から。

『ちょ、どうしたのともか! なんで泣いてんの!?』

『……しーちゃん』

 うつろな瞳から涙を流したまま、花散先輩は崩れるように倒れかかった。

 冬見先輩は混乱したまま花散先輩をしっかりと抱きしめ、とにかく落ちつかせようと……いや、いつもの彼女にもどってほしいと、そう願った。

『しーちゃん……わたしね……』

 そして花散先輩は唐突に……ほんとうに唐突に、生気の抜けおちた声で、与えられた原稿を読むように淡々と話しはじめたのだ。

 自らが受けた仕打ちの全容を。

 最初は、すれ違いざまの悪口からはじまった。教室。廊下。トイレ。体育の授業。

 彼女らの誰かとすれ違うとき、一瞬だけあざけるような目で見られてから、耳元で言われる。

 臭い。キモい。ウザい。ブス。消えろよ。

 言葉の針を身体の内側に刺されていった。そのあとはノートへの落書きをされるようになった。

 死ね。オトコ好き。ビッチ。淫売。学校くんな。豚小屋に住め。

 そんな言葉とともに、形の歪んだ下品でグロテスクな人の顔や、足の開かれた下半身の絵が、赤や黒色で獣が食い散らかした痕のように書き殴られていた。定期的に行われるノート提出後にはじまったそれらは、本人以外の目に触れることはなかったのだ。

 その次は衣類をよごされるようになった。登校すると上履きは、足がザラつく程度に砂がかけられていた。体操服は着るまえから、グラウンドで転んだあとのように土まみれになっていた。体育から帰ってくると制服は、床に落とされて靴跡が付けられていることがあった。雨の日には放課後になると、下駄箱のなかの靴が水にひたされたようにぐしょぐしょに濡らされていた。

 机のなかには、呪いと憎しみの言葉が手紙となって連日のように放りこまれた。

「おまえの髪を引き千切ってやる」「おまえの目を彫刻刀でくり抜いてやる」「おまえの鼻をハサミで切り落としてやる」「おまえの唇を火であぶってやる」「おまえの顔の皮を爪で剥ぎ取ってやる」「おまえの子宮を鉄パイプを突っこんでつぶしてやる」

 気弱なあの人にとって、それはどれほどの恐怖だっただろう。おぞましい悪意の餌食にされ、どれだけ身が食いちぎられただろう。

 それでも花散先輩は、胃がねじれるような苦しみと心が削られる痛みを感じながらも、それまでと変わらないようにすごした。上履きがザラついてても誰にも言わなかった。体操服は洗いそびれたとごまかした。靴跡のついた制服は、運悪く落ちて誰かが踏んじゃったんだねとツイてなさそうに笑った。雨の日の下駄箱の靴は、学校くるときに車に水をかけられちゃったと眉を下げて言った。手紙は誰にも見られないよう、家に帰ってから捨てた。

 仕打ちは度を越していった。ある日、家に帰ってカバンの中身を出そうと手を入れると、教科書やノートの下に大量のゴキブリの死体と髪の毛の束が敷きつめられていた。

 翌日、それでも学校にきた彼女に、歯止めの効かなくなった犯人たちは乱暴で直接的な手段に出た。

 放課後の空き教室に無理やり引っぱりこみ、四人がかりで襲い、服を脱がせ、写真や動画をいくつも撮った。逆らおうとすれば髪を引っぱられた。そのうえ、眼球の前で彫刻刀を突きつけられ、鼻先でハサミの刃を閉じられ、唇にライターの口を押しつけられたら、抵抗のために身体を動かすことなどできなかった。言われるままに体勢を変え、口を強く引き結んでただ時間がすぎるのをひたすらに待ち続けた。ひと通りが終わると、主犯の少女は花散先輩に要求した。今付き合っている彼氏と今日中に別れろと。さもなければ、今撮影したものを匿名でクラスをはじめとした学年中、学校中の人間にばらまくと。

 その日、家に帰ってから花散先輩はラインで、涙で濡れる液晶を見つめながらただ一言『別れよう』と入力して送信した。直後にかかってきた電話には出なかった。喉も指先も泣いて震えていて、出ることなんてできなかった。

 次の日花散先輩は学校を休んだ。限界だった。ほんとうは二度と行くつもりはなかったという。その日からなぜか出会い系サイトからのメールが届きはじめたが、それどころではなかったし、ただのイタズラだろうと思い無視した。

 だが休んだその日、別れたはずの彼氏からラインで連絡がきた。

『一度、ゆっくりと話し合いたい。学校にきてほしい。明日の放課後、委員の仕事が終わったら教室にもどってきてほしい』

 彼女にとって、それは細い希望だった。話したくない。知られたくない。でも話したら、優しく包みこんでくれるかもしれない。これから守ってくれるかもしれない。

 花散先輩は『わかった』と返信をし、ボロボロに削られていびつになった心を奮いたたせて、次の日にまた登校をした。

 だけど、自分がきた途端に一瞬だけ静まりかえる教室とまわりからの視線に、嫌な不安と恐怖を感じた。自分を見てひそひそと話す声。いつもはそれなりに親しいはずの数少ない友人たちが、どこか態度がぎこちなく、避けるような態度をとっている。何かおかしい。たった一日休んだだけで、どうしてそんな目で見られなければいけないのだろう。連絡をくれた彼氏もどうしてかおどろいた顔をしていて、何か言いたそうにしていたが話しかけてはこなかった。放課後まで待つつもりなのだと、花散先輩はそう解釈した。

 そして押しつぶされそうな重圧に耐えて、長い長い一日を終えて放課後になった。その日は前々から決まっていた委員の仕事があったのでそれを終わらせて、部活動の時間のために生徒のほとんどいなくなった廊下を小走りに走り、一途で淡い期待を胸に抱いて教室にもどった。そして見た。

 教室の扉の窓ガラスの向こうに、二日前に別れた彼氏と……なぜかイジメの主犯の少女が一緒にいるところを。

 そのまま教室には入れなかった。

 ふたりは神妙な顔をして話していた。

『俺、まだ信じらんないよ……。ともかが……』

片岡かたおか……でも見たでしょ? 出会い系サイトのあれ……。十八歳って書いてあるけど、住んでる地域とか、血液型とか星座とか一緒だし、それにこのプロフの写真。顔は見えないけど、髪型が一緒でしょ。だから、その……あのホテルの前でうつってる写真もたぶん……』

『……“相手”と会ったときのってことかよ』

『…………』

 なんの話をしてるのか、最初は理解できなかった。でも、異様に不吉な気配のするものだということは働かない頭でもわかることだった。

 主犯の少女は、さも悲しそうにひとつひとつの言葉に気持ちをこめていた。

『アタシも信じらんないよ……。花散って大人しそうなイメージがあったのに……援交とか』

『まだ決まったわけじゃないだろっ』

『でも片岡も見たでしょ! ホテルの前のだけじゃなくて、花散の……裸の写真も』

『わかってるよッ!』

 聞くことを拒むような悲痛な叫び。

 こめかみに釘を打たれたような衝撃に、花散先輩はその場に倒れそうになった。

 約束は守った。脅迫通りに守った。

 なのに、見られてる。それも想像していた以上に悪意に満ちた方向に向けられたものを。理由は不明だが、まったく身に覚えのない疑いまでかけられ、まるで現実さえもねじ曲げられているような内容だ。

 彼氏は痛みを抑えるように頭を押さえて呻いた。

『俺、もうわっかんねぇよ、ともかのこと……。突然ラインで別れようって言われて、こっちから電話かけたのに出なくて、それっきりで……。そしたら次の日に援交の噂が広まって、写真が出回って見せられて……。今日学校にきたから話そうと思ったけど……俺、何も言えなくて……』

『……片岡』

 少女は突然、彼の頭を優しく包みこむように引きよせた。

 たがいの頬がくっつきそうなほどの距離に、苦しそうだった彼氏も当然焦った。

『なっ、お、おい、華秧かなえっ』

『…………』

 少女は潤んだ瞳のまま、壊れものを扱うように彼を抱きしめ続けた。そして感情があふれそうな吐息とともに、とても健気そうに彼の耳元でささやいた。

『……無理しなくていいよ』

『えっ?』

『すごく……つらいよね……? せっかく付き合えたのに、こんなことになっちゃって……。アタシ花散のこと全然わかんなくて、それもつらいけど……何より片岡がつらそうなのが、アタシは一番つらい……』

『か、なえ……』

 少女が彼にどんな気持ちを抱いているのか。そして温かくて純な感情を向けられて、彼の心が大きく揺れたことが、見ているだけの花散先輩にもよくわかった。

 おそらく、彼を抱きしめている少女にも伝わっている。

 そしてそれをひと押しするように――

『片岡、ごめん』

『!』

 少女が彼氏にキスをした。

 花散先輩も、息が止まった。

 少女も頬を赤く染めて、泣きそうなか弱い声で必死そうに語りかける。

『片岡、ごめん、ごめんね……?』

華秧かなえ……』

『こんなときにホントにごめん……。でもアタシ、ずっと片岡のこと……。片岡が花散のこと好きなのは知ってる……。でも落ちこんでる片岡のこと、見ていたくない……。アタシは片岡のためなら、構わないから……だから……』

 ぐっと息を飲みこみ、目のまえの人を助けるためにすべてを捧げることを覚悟したように、少女はもう一度ゆっくりと顔を近づけて、彼とキスをした。

 ふたりのあいだから言葉は消えた。

 彼も疲れきったような表情をするだけで、拒まなかった。むしろ救いを求めるように少女の腰に腕を回して抱きしめた。

 花散先輩は、閉ざされた扉の向こうがわで起きているおぞましい茶番を、震える瞳孔で見つめていた。

 そのとき――少女のほうと目が合った。そして少女の目が細くなり、口の端がゆっくりとゆっくりとつり上がっていくのを、はっきりと見た。

 その瞬間、花散先輩はその場から逃げだした。逃げて、逃げて、そのまま校舎を飛びだしたところに冬見先輩に呼びとめられたのだった。

 冬見先輩は最初、わけがわからなかったという。信じられないとさえ思った。しかしそれ以上に、彼女が嘘を言うなんてことがありえないことも事実で。そして、あまりに残酷な出来事を生気のない表情から淡々と聞かされるというその異常さが、かえって不気味な真実味を帯びていることもたしかだった。

『ともか……』

『ゴメンね……突然こんなこと話しちゃって……。でもわたし、もう黙ってるのがつらかったの……。ずっと誰にも言えなかったのがつらかったの……。……つらい? ううん、そうじゃないの。もうどうでもよくなっちゃったの。今までがんばってきたこととか、勇気だしてイメチェンしたこととか、片岡くんのこととか、ふたりですごせたたのしい日々とか、もうみんな、なにもかもぜんぶ』

『と、ともか、落ち着いてっ……』

 バグを起こした機械のようにおかしくなっている彼女の様子に、そしてたった今告げられた真実に冬見先輩自身が混乱していてどうしていいかわからなかった。それから部活の仲間が休憩からもどらない自分を探しにきたことが、冬見先輩をさらに焦らせた。

『しずー? そんなとこでなにしてんのー?』

『あ、ちょ、ちょっと待ってて!』

『もういいよ、しーちゃん』

 それを察した花散先輩が、突きとばすように手で押しやって冬見先輩から離れる。

『え……とも、か……?』

『もう、大丈夫だから』

 そうして、糸に吊るされた人形のようにおぼつかない足どりでふらふらと校門へ向かって歩いていった。それから何かを思い出したように冬見先輩のほうへ振りむき、たった一言だけ言いのこしたのだ。

『バイバイ』

 そしてその日、彼女は痕が残ることを免れない数多の傷を身体に残しながら、嵐に見舞われれたような自分の部屋のなかで、意識を失い血まみれで倒れているところを母親に発見された。

 身体面、精神面の両方の損傷から、彼女は今も病院にいる。


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