きみがいなくなること (6)



 夏休みに入った学校は、いつもよりも薄気味悪い静けさを漂わせていた。吹奏楽の楽器の音や、グラウンドで聞こえる運動部の声が背景のようにかすかに響くだけで、雑談をする生徒の生身の声は一切ない。日常からあるべきものだけが消えてなくなったような違和感を覚えながら、屋上へ続くドアを押す。重たい鉄の扉から流れる突風が身を切り裂き、それが過ぎ去ると視界が開ける。夏にはふさわしくない冷たい風が吹く曇り空の下。

 彩香はいた。屋上に入ってきた俺に背を向け、フェンスに手をかけて、外にある町を見ているようだった。ここからはさまざまな建物が見え、さまざまな人々が見える。いったいその目にうつる人々のなかに、善良な人間はどれほどいるだろう。

 扉の音で俺がきたことがわかったのだろう。彩香は背を向けたまま口を開いた。

「最近」

 まるで距離をはかるように、慎重そうな口調で彩香は言う。

「関東では、事故が多いよね。ふとした偶然で重傷を負ってしまったり、運悪く……亡くなってしまったり。たまに学校でも噂で聞くくらい。毎日見るニュースでも、ここら辺のことが増えてる気がする。この近くの病院に運ばれる人も多いし、容体が急変して亡くなった人も多いんだって……」

 仮とはいえ、診療所で働いているためにそういった情報も流れてくるのだろう。

 明里の行動範囲も限りがあるので、関東周辺になるのは避けられなかった。いくら新幹線以上の速度を出せると言っても、それはあくまでも疲労を考えない全力の場合だ。行き帰りや次のターゲットの場所へ行くのにつねにその速度を出すわけにもいかない。最初は、自分の住む場所の近くにそんな人間が多く存在していることを知ってゾッとしたものだが、今ではもう何とも思わない。

 彩香は、すこし声を震わせながら続けた。

「ほんとうに、苦しんで……。ものすごく痛みを感じながら死んでしまった人もいるみたい……。家族や恋人に心配されながら、懸命に生きようとして……それでもダメだった人もいる。ほんのすこしの偶然で、人って死んじゃう……。それって、すごく理不尽で、すごく悲しいことだと思わない……?」

 かすかな希望にすがるような、儚い声。

 でも俺は、温度のこもらない声で返した。

「けど、ひょっとしたらそういう人たちのなかにも、他人を不幸に陥れておきながら、反省もせずにのうのうと生きているようなやつだっているかもしれないよな」

 フェンスがガシャリと音を立てる。彩香が強く握った力が揺らしたものだった。

「もう芝居はやめよ」

 厳しい声。普段の彩香が絶対に出すことのない、敵意を含んだ声色。そして振りかえる。

 強い眼差しだった。すべてを……幼馴染を拒絶する覚悟さえを持った、強い眼差し。

「いるんでしょ? そこに」

 それが、決定打だった。おたがいに相手の近くに何がいるのかを知っている。もう隠さない。無駄に言葉も重ねない。

 俺の側にいる何か。

 そして彩香の側にいる何か。

 ふたつの存在は、今ここに、同時にその姿をさらす。

 

 彩香の横。そこにはたしかに、俺が今さっきまでまったく見えていなかった、はじめて見る者の姿があった。足を地面から浮かした、死神とは対をなす存在が。

「えっ……?」

 着ているものは、落ち着いた水色の、前開きの無地のパジャマ。そして明里よりも長い髪が乱雑に降ろされている。骨と皮しかないようなあまりに細い身体と、血色のない雪のような白い肌にはたしかに人間味がなかったが、それをのぞけば俺や明里よりもいくぶんか歳を重ねた、落ちついた大人の女性に見える。死神と同様で外見だけは人間と同じで、病人みたいなその身なりはあまり人を救うための存在には見えなかった。ただ、それだけならまだいい。

 でもあの天使を見ていると、頭のなかにわずかな痛みが走る。脳の内側からガンガンと叩かれて反響するような、記憶につながる痛みだ。けれどその痛みの正体がわからない。

 彩香は自分に似た顔をした明里を見て目を見開いていたが、それに反応している余裕は俺にはなかった。

「あれが、天使なのか……?」

「…………」

 念のために明里にそう聞いてみた。だが返事がなかった。どうしたのかと思い見てみると、そこには信じられないものを見るような顔をしている明里の姿があった。

 え? 何でおどろいているんだ? 彩香の近くに天使がいることは、俺よりも明里のほうがわかっていたことじゃないのか?

 そして見れば――天使のほうも明里とまったく同じ反応をしていた。

 おたがいに、まるでそこに存在するはずのないものを見ているような表情をしていた。

「何で……いつの間に」

「そんな……嘘でしょう?」

 明里と天使が、それぞれにつぶやきをこぼす。

 そんな両者を見ながら、俺は混乱で思考がうずまいていた。そしてはじめて聞くはずの天使のその声にも、やはり心の隅が刺激されるような些細な変調を引き起こされる。

 明里とあの天使は、おたがいのことを知っている? 何でだ? 死神や天使っていうのは、億単位でいる存在なんじゃないのか? たがいのことは気配を感じられる程度なんじゃないのか? 死神同士でさえ関わりをもつことはないと言っていたのに、どうして対極の存在にあるあの天使と明里が関わりを持っているんだ?

 わからないことだらけで混乱していると――明里の顔が徐々に曇ったものへと変わっていく。そして……天使の横にいる彩香をチラリと見たあと、静かに言った。

「そっか……よく似てるもんね」

「――っ!」

 天使がビクリとし、心なしか怯えたような表情になる。

 似てる? 彩香と……明里が、だろうか? たしかに、はじめて明里の顔をしっかり見たとき、ふたりは似てると思った。顔を見比べられる今だってそうだ。俺と同じに戸惑いをあらわにしている彩香を見てから、また明里を見る。血色のほとんどない病的に白い頬。骨が透けて見えそうなほどに細い手足。乱雑に降ろされた中途半端に長い髪。そんなひとつひとつの要素が一見したときに違う印象を与えはするが……それでも、明里と彩香の顔立ちそのものはとてもよく似ているのだ。

 でも、それが天使が彩香の側にいるどんな理由になるんだ?

 わからない。いろんな要素が一度に頭のなかに入りこみすぎて、まったく整理できなかった。

「おい、明里……?」

「ごめん、ちょっと離れるね。優は彩香の相手をして」

 どこか切なそうにそう言うと、突如明里の姿が消え、すこし遅れて天使も同様にいなくなった。おそらくまだ近くにはいるのだろう。その姿を見せていないだけだ。俺たちには聞かれたくないということなのだろうか。孤独な静寂のなかに取りのこされたように感じて混乱した。

 けれどそうだ。たしかに今日は、天使と一緒にいることを確かめにきた。

 だけど、俺の相対する相手は天使そのものじゃない。

 目のまえにいる、今までずっと側で見てきた、幼馴染だ。

「…………」

 ふたりが消えると、冷たい屋上には息が詰まるような静かな空気がもどった。

 彩香も俺と同じく、わけのわからないまま置き去りにされたことに戸惑っていたが、俺と再び目が合うと、すぐに表情を引きしめた。

 彩香は知ってるんだ。俺が何をやっているかを。彩香は一度だけギュっと目をつぶったあと、震えそうになるのを必死にこらえるような声で訊いてきた。

「人を……殺してるの?」

「ああ」

「っ……」

 あまりにもあっさりとした反応だったことに、ひるんだように見えた。小さく凍った息を飲んだような、青ざめた顔をしている。彩香は、自分そのものが崩れそうになるのを必死にこらえるように、胸に添えた右手をかすかに握った。

「あの人から聞いてる……。優は、犯罪者を調べて殺していってるって……」

 絶望と哀しみににじませていた目を、それでも彩香は強気に変えて、はっきりと言った。

「そんなの間違ってる」

 普段の明るくて笑顔を振りまいている姿からは、考えられない力強さをもった響きだった。恐怖と向き合っても、それに負けないようにと戦う、健気な眩しい姿。

 そうだ。おまえは強いやつだもんな。ひとりでも苦難に立ちむかえる強さを持った、憧れの幼馴染だ。

「どうしてそんなことするの!? そんなことしたって、なんの解決にもならない!」

?」

 自分で言って、ぞっとするくらい冷え切った声だった。なのに、身体の奥底ではドロドロのマグマが煮えてるのがわかる。

 そんなの、彩香ならわかるんじゃないのか。

 いや、逆か。わからないのか。

 俺と同じ体験をしながら、俺と真逆のことを考えた彩香には。

 彩香。たしかにおまえは強いよ。側で見てきた俺が一番よく知ってる。

 だけど、その強さの裏にほんとうは弱さがあることも知っている。薄い氷のように、些細な力でヒビ割れてしまう心があることを。その致命的となる、たったひとつの急所を。

 心の氷が砕ける音がした。

 彩香は、胸を穿うがたれたようにビクリとしたあと、微動だにしなくなった。目からは、敵意も、戦意も、希望も、何もかもが失われ、ただ真っ暗な闇が広がっているばかりだった。胸を抑えていた手がだらりと落ちた瞬間、感情も、心も、一緒に抜けおちたように見えた。

 だけど、その姿を――顔を――見た瞬間、俺はその刃が諸刃であることを知った。

 魂を失くした亡骸のようなその顔は。

 俺が、もっとも見たくなかった顔だった。

 俺の放った楔は、俺の胸も同じように抉った。決して触れてはならない禁忌の痛みは、諸共に俺たちを空気に縫いつけ、血を吐くような痛みを伴った。

 その瞬間、何かが決定的に崩壊していくのを感じた。

 わかってたんじゃないのか。そのことを持ちだせば、彩香はかならず怯むって。傷つくって。なのに、どうしてこんなに後悔が押しよせるんだ。

 その顔を見ていることに耐えられなくて。

 できるだけ動揺を悟られないように。まるで今ので話はすべて終わったとでも告げるように、俺は背を向けて屋上を出た。


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