きみが望んでいること (4)



 優香里さんは彩香と明里の顔を見比べた。

 学校の屋上ではじめて明里を見た彩香は、自分と似たその顔がまだ見慣れないようだった。

「…………?」

 明里はなぜか彩香には目もくれず……優香里さんのことを、学校の屋上でその姿を見たときと同じような、信じられないものでも見るような目で凝視していた。

 優香里さんは明里のそんな表情の変化に気付かなかったのか、そのまま話を続けた。

「二人の顔はほんとうによく似ている。それこそ姉妹みたいで、まわりのことなんか目に入らなくなるくらいだった。……きっと、そのせいなのね。しばらくのあいだ三人から目が離せなくて……そしてあの事故を目撃するのよ。

 私ね……あの事故を見た瞬間、もう何も考えられなくて……無我夢中であの場から逃げだしたのよ……。自分の無力感に囚われて……力を手に入れたあとも何にも変わってないって……そう思って、あの現場を忘れ去ろうとしたのよ……」

 まるで懺悔するように、優香里さんは言った。

「でもね……明里ちゃんに似た彩香の顔を思い出すと、それもできなくなった……。目のまえの子をまた救えないなんて……明里ちゃんも彩人くんも救えないで……それで……それでもし彩香が、それに一緒だった優くんが自殺でもしたらと……そう思ったら、耐えがたいほどの恐怖に包まれた。

 だから私は……最初は、彩香の様子を見ていたの。だけど……」

 優香里さんは、その当時のことを思い出すように、目をつむった。

 彩香もつらそうに目を伏せる。当時の自分を思い出しているのだろう。

 俺も胸が苦しくなった。自分の『世界』が壊れることに耐えられなくなって、足を運んだ末に見た、あの姿。

「彩香の姿を見ていくうち、だんだんと私の気持ちは弱くなっていった……。

 だって……彩香は何もしないんだもの。最低限のごはんを味も感じないまま食べ、あとはずっとベッドの上で枕を抱いている。

 それは私にとって……肉体的な死よりも絶望的に感じたわ。怒りに我を忘れて叫びちらすだけのことすらしない。廃人のようなその姿に、私はまた打ちひしがれた……。あんなの……自分にどうこうできるなんてとても思えなかったからよ……。

 だから私は、彩人くんを失ったもうひとり……優くんを探したのよ。……ねぇ優くん、おぼえてないかしら? 私は四年前、きみに話しかけたことがあるのよ……」

「え?」

 突然自分の話をされて思考が追いつかなかった。話しかけられたことがある? いつ?

「きみ自身にもどうにか立ちなおってほしくて……そしてできるなら、きみに彩香を救ってほしくて……。他人まかせで卑怯な手段だというのは理解していたけれど、もうほかにどうすればいいのかもわからなかった……。幽霊が生きている人間に話しかけるというのは、相手の心にひどい負担を与えるものだということはわかっているつもりだった。でも私自身もいっぱいいっぱいで、物事を深く考えて行動する余裕なんかあのときにはなかった。だから私は優くんに話しかけたの。『どうか挫けないで』『世界に絶望しないで』って、そんなことを何度か言ったと思うわ」

「あっ……」

 そう言われた瞬間、思考が四年前へと逆行する。彩人が死んで間もなく、家に引きこもっていたある日のこと。幻聴のような声が、うつむく自分に向けられていたのだ。


 ――『どうか挫けないで』『世界に絶望しないで』


 屋上ではじめて会ったときから、この人に対して奇妙な違和感を覚えていた。まるで心の隅を刺激されるような、不思議な感覚を。

 それは……過去にその姿を見て、その声を聞いたことがあるからだ。俺はあのとき、独りでに聞こえてくる謎の声と、おぼろげに見える人の形をした『何か』に対して、恐怖や怒りといった感情のすべてを憎しみに変えて吐きだしたのだ。


 ――おまえに何がわかる。彩人があんな目に遭って! そのせいで彩香まであんなことになって! こんな『世界』に何の意味があるってんだ! 消えろ! 目障りだ! おかしな幻覚め! おかしな幻聴め! 消えろ! 消えろッ!!


 部屋のなかで正気を無くして、そうわめき散らした。まるで彩人を殺した理不尽な世界そのものに刃向うように。

「結局、私は優くんにさらなる負担を与えるだけになってしまった……。当然よね……自分ひとりしかいないはずの部屋で、とつぜん知らない人間が浮いていて話しかけてくるなんて、気が狂ってもおかしくないわ。いくら事故を防げず、二人の様態を見ていて冷静になれなかったからと言って、私のあれは安直な判断だったと言わざるをえない……。自分への罪悪感からどうにかしたいと思いこみすぎて、何をしないでもなく、根気強く話しかけつづけるでもなく、一番中途半端なことをしてしまったと思う。そして私は優くんの近くにそれ以上いることができなくなって、その場を離れた……。

 また私は何もできなかった。そんな無力感に支配されて、この町からも出ていこうかと思った。けれど、あのまま放っておくことは……やっぱり私には耐えられなかった。『また逃げだすのか』って、そんな自分の声が聞こえたわ。子供の事故現場からも逃げだして、一緒にいた男の子からも逃げだして……そして、明里ちゃんに似た彩香からも逃げだすのかって……。

 だから私は、もう一度彩香のところへ行ったの。

 優くんと同じようになってしまったらどうしよう。正気を失くすようなことがあったらどう責任をとればいいの。これから私のすることは余計なことでしかない。

 そんな心の声が聞こえて怖かったけれど……もう後戻りなんてできなかった」

 だからこの人は、もう一度勇気を持って彩香のもとへ行き、姿を見せ、声をかけたのだ。

 彩香は不思議なその声に一瞬だけおどろき、怯え、でもしっかりと、その人の姿を見た。

 そして優香里さんは、可能な限り冷静に語りかけて、自分の身の上を話した。自分がかつて生きていた人間であること。自分がかつて看護師をしていたこと。弟の事故現場にいたことも。

『事故現場』という言葉を最初に使ったとき、彩香は発狂したという。言葉にならない金切声をあげ、両親が部屋に入ってきて、その日は何もできなかった。

 優香里さんは挫けそうになる心をそれでも奮い立たせ、根気強く、何度でも、何日もかけて、彩香に話しかけつづけた。


 ――ひょっとしたらあなたにも、まだやれることが残っているかもしれないわ。私と一緒に、それを探してみない?


 優香里さんは何度か、そんなことを言ったという。

 彩香はゆっくりと、何度も何度も考え、彩人のことを思い出し、俺のことを思い出し、そしてこの世に生きている、自分のように絶望に見舞われているすべての人のことを考えたのだろう。

 そうして彩香は、看護師を目指すようになった。

『世界』が灰色に見えていたあの夏休み。彩香がふたたび立ち上がり、学校へと行き、そして看護師を志すようになったのは……この人の存在があったからなのだ。


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