エピローグ
エピローグ この世界で、この『世界』で
平日の放課後。俺は彩香を伴って、ある場所へと訪れた。
T病院跡。
俺がはじめて殺人をおこなった場所。自らが手を下した唯一の場所。これから殺人をしていくんだという決意のためにと。
二階に位置するそこには、ガラスの破片や小さな瓦礫はまだ散らばっているが、もう人間の死体なんて当然ない。棚もどこかに運ばれたのか、なくなっていた。
「そっか……。この場所で……」
つらそうな面持ちで彩香が言う。俺が華秧さやかを殺したことは、明里を許せるのかどうかを話しあったあの日に話していた。
華秧さやかのことは――名前だけだったが――彩香も知っていた。四ヶ月前の五月、この廃病院で華秧さやかが死んでいたという事件は、花散先輩のとき以上に学校で騒ぎになった。強い怨恨が理由と見られる他殺であるということから、華秧さやかに対するさまざまな疑惑が持ちあがり、一時期はその話題で持ちきりだった。
華秧さやか。
卑劣で残酷な手段をもちいて花散先輩を追いこみ、そのせいで冬見先輩をも傷付けた。あの人のことを明里のように許せるのかと聞かれると、すぐには答えられない。
でも、思う。あの人は、どういう人生を送ってきたんだろう。俺が壊してしまったあの家庭でどう育ち、どんな経験を経て、あんな行動をとる人間になってしまったのだろう。
何かしらのつらい経験でもあったんだろうか。それともあの家庭とはまったく関係ない場所であったり、あるいはただの成りゆきでいつの間にかずぶずぶと沈んでいき、容赦のない歪んだ性格になってしまったのだろうか。
実際のところはわからない。
でも……あの人にも、十八年を生きた人生があった。
それは俺や彩香や、明里や優香里さんだけじゃない。学校のクラスメイトや先生。その身近にいる人たち。街中ですれ違うさまざまな人々も。スーツを着て電話をしているお兄さん。生まれたての赤ん坊を抱えるお姉さん。ランニングをしているおじさん。世間話をしているおばさんたち。夫婦仲良く歩いているおじいさんやおばあさん。背景と一体化しているような都会の雑踏を生みだすすべての人。会ったことも見たこともないような他国の人々にも。
七十億人生きている地球には、七十億の人生がある。
この世界で生きているすべての人に、それぞれの人生と『世界』がある。
そこには幸せを感じている人も、理不尽に巻きこまれてしまう人も数えきれないほどいる。
今この瞬間だって、人は死に、人は生まれている。一度しかない人生を奪われ、一度しかない人生を始める。
華秧、先輩。ごめんなさい。俺はあなたの、命を奪った。
そして華秧先輩の家族。俺が殺してきたすべての人々。その近しかった人たち。俺はあなたがたの一度しかない人生の未来を奪い、あるいはその心を深く、深く傷つけた。
謝って許されることでは決してないけれど。償うことができるかどうかもわからないけれど。
それでも、ごめんなさい。
今はただ、そう思うことしかできない。
ぎゅっと、左手を握られた感触があった。
彩香がこっちを、ぎこちない笑顔で見ている。
明里だけじゃない。彩香ともしばらくのお別れだ。
目のまえで、かつて棚の下敷きになっていた女生徒の姿を思い出す。
「……悪い」
「……どうして私に謝るの」
「彩香にも、迷惑かける」
……俺は、自首をする。
これが、彩香に「これからどうやって生きていくのか」と訊かれた日に決めた、俺のこれからの生き方だった。
多くの人を殺し、人助けをしていくと決めた明里。同じ罪に塗れた俺にできることがあるとすれば、それしか思いつかなかった。
何せ俺には明里と違って、法律で裁ける罪がたったひとつだけある。それを償わないことには、その後の人生を送る資格など持てないだろう。
しかしそれは、柘植崎優が殺人を犯したことを世に知らしめることでもある。
彩香だけではなく、父さんや母さんにまで「迷惑」という言葉では済まされない重荷を背負わせるのだ。
彩香は、殺人犯と親しかった人間として見られる。
父さんと母さんは、殺人犯の近親者として見られる。
とくに父さんは警察官なのだ。辞職は免れず、復帰も見込めないだろう。これまで培ってきた努力や功績もすべて無に帰してしまう。そうなれば柘植崎家の生活、ふたりの人生さえも狂わせることにもなる。
そんなことを考えていくと、自分への憎しみで身が潰されそうになる。俺はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろう。人まで殺し、自分の身内の人生まで狂わせる。恥さらしなんて言葉では足りない、最低最悪の人間だ。
「私……明里ちゃんに、話したの」
俺の横で。
彩香は、そのときの記憶を噛みしめるように、ゆっくりと切り出した。
明里と別れたあの日のことだろう。俺がバイトをしているときに会って話をしたと聞いた。
彩香が明里とまともに話をしたのはそのときがはじめてだったはずだ。でも、友達に悩みを打ち明けたことを話すようなその口調は、ふたりが悪くない関係になれたことを示しているようで、すこしだけ安心させられた。彩香は続けた。
「そのときに明里ちゃん、言ってたの。『やっぱり優は自首するんだ。そうだろうなと思った。きっと、ものすごい自己嫌悪に苛まれて、心をすり減らして、挫けそうになって、何度も何度も死にたいと思うようになるんだろうな。でも……きっと最後には自分がするべきことを思い出して……踏みとどまって、耐えてくれるはず。だから彩香も、信じて待っててあげて』って」
心のなかに、ちいさな明りが灯ったような気がした。
――応援、してるから。
短いその言葉には、ほんとうに、様々な意味が込められていたのだ。
彩香は淡く微笑んで、背中を優しく押すように、俺の左手を握る右手に力を込めた。
「優、私は大丈夫。だから、優も挫けないで。優ならきっと大丈夫だって、私は信じて、待ってるから」
手のひらから熱が伝わってくる。柔らかくて温かい。生きている感触がある。それを離すまいと、俺もそっと握り返した。
彩香の右手の感触をたしかめながら、俺は自分の人生の可能性について考える。俺の人生がどんな結果になろうとも決めていること。
自分が、死ぬときのこと。俺は自分が死んだときに、絶対に幸せを感じながら死んだりなんかしない。意地汚く、往生際悪く、潔くなく、この世界に未練がましく執着しながら死んでやる。そうして自分が死んでからも、死んだあとに手にできる力を使って、人を助けていこう。それが、肉体や魂のすべてが罪に染まってしまった俺にできる、精一杯のことだと思うから。
そうだ。
世のなかには、どうしようもなく身勝手な考えを持って罪に塗れた人もいる。
罪は安易に許されていいものでは決してない。自分が許されたいとも思わない。思わないが。
それでも罪は、絶対に許されてはいけないものではないと信じたい。罪に塗れたその人を大切に想う人だってきっといるから。罪に塗れたその人だって大切に思う人がきっといるから。
結局のところ、明里と出会ってからの四ヶ月で俺が学んだことは、とてもありふれたものだった。命は大切だとか。幸せはひとつだけじゃないとか。人間はそれぞれの人生を生きているとか。そんな、星の数ほど生み出されている物語のなかで星の数ほど言われてきたこと。
でも……そのあたりまえのことを、強く胸に刻んでいようと思った。
「優、今の音……?」
彩香がつぶやいた。
俺にも聞こえていたし、自分の肌で感じていた。ポケットのなかのスマホがラインの通知で震えたのだ。
取りだし、相手とそのメッセージを見た。
見た。
何度も見た。
信じられなくて。あまりにも信じられなくて、何度も何度も、自分の脳が内容を理解するまでその文章を読み返す。そうしていくうち、目の奥や鼻の先がじわりと熱くなるのを感じた。
それは、すこしだけ長い文章だった。
『優くん、ひさしぶり。わたしのこと覚えてるかな?
突然の連絡で、きっとおどろいてるよね。最後に会ってから、もう一年近くたつもんね。
わたしが今入院してるっていうのは知ってるんだよね。大きな騒ぎになったって、しーちゃんからも聞いてる。
そのしーちゃんがね、面会できるようになった夏休みに入ってからお見舞いにきてくれるようになったの。わたし、今学校の近くじゃなくて、すこし離れたところにある病院にいるのに、空いてる日はいつもきてくれてたんだ。そのときに、わたしがどういう経緯で入院したのかも優くんに話したって聞いてる。
心配かけちゃってごめんね。きっとおどろいたと思う。でも入院中にもいろいろあってね。話すと長くなっちゃうからここでは割愛するけど、わたしはもう大丈夫。その話は、また今度するね。
それに、そうそう。いい報せがあるの。聞いてくれるかな。
そもそも、こんなに長々と話しちゃったのに、どうしていきなりわたしが連絡をしたのかっていうの、言ってなかったよね。
しーちゃんに頼まれたんだ。このことは、あたしからじゃなくてともかから優くんに伝えてほしいって』
そしてその最後の一行を読んでから泣き崩れそうになる俺を、彩香は優しく支えてくれた。
『わたしね、退院するんだ』
この世界には、理不尽というものがどうしようもなく存在していて。それは時に、安息に抱かれている人の身に情け容赦なく降りかかり、その心の平穏を根絶やしにしてしまうことすらある。
見知らぬ誰かが。身近な人が。自分自身が。
生きている限り、必ず理不尽に襲われる。
あるいは人に、理不尽を与えてしまうことすらある。
それでも、必ずどこかに希望はある。自分で希望を手にすることだってできる。
今は、そう信じたい。
この世界で、この『世界』で、俺たちは生きている。
俺はもう、死後にすることも決まっている。
だから今は、生きているうちにできることをしようと思う。
この世界で、この『世界』で 甘夢 鴻 @higurashi080
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