第26話 羽が散るまであと何分?
【イグナ】
トッ、と小さい音が、聞こえた気がした。
だが、小さい音だったから、誰も気にしなかった。イグナも、魔女クイルもだ。
クイルは怯えて、逡巡しながらタイムに言葉を投げかける。
「なっ、何よぉ。驚かせて、何も起こらないじゃなぁい!」
勝ち誇った風に見せながらも、その声は震えていた。タイムは時計を握っていない左手で、トップハットを目深に被りなおして、言う。
「哀れだな。お前は何に怯えている」
「はっ、はぁ!? お、おび、怯えてなんていないわぁ! あたくしは、お、お前の肥大した噂になんて転がされないのよぉ!」
「そうか」
再びタイムは、カチッと一度時計のボタンを押しこんだ。トトッ、と短い音が続く。
それにイグナは僅かに違和感を抱き始めるが、クイルは気づかない。
「何、してるのよぉ……! 時計のボタンを、押しこむだけぇ……? そ、そんなことで、あたくしを殺せると思っているのぉ……?」
「そう、見えるのか。お前には」
またタイムはボタンを押しこむ。トトトッと音がする。
クイルは反応しないが、それよりも近くに居たイグナは目をこすった。小さな声で呟く。
「……今、ブレた、か……?」
タイムはまたもボタンを押しこむ。トトトトッ、と音がする。
「あ、あっは、あっはははははっ! お、驚いたわぁ! タイムが、敵を前に悠長に、時計のボタンを押すことしかできないなんてぇ!」
クイルは必死になって、ひきつった笑いでタイムを過小評価しようとしている。
だが、この場の全員が、本当は分かっているのだ。
タイムは、今、何か想像もつかない何かをしている。すぐにでも魔女クイルを始末するための、準備を整えているのだと。
タイムはさらにボタンを押しこむ。
直後、先ほどのようなトトトトトッ、という音が上がる。
だがそれ以上に、その音をかき消すようにして、小さな「ぷぎぇっ」という悲鳴が上がった。
「……な、に、今の、声は」
クイルは全身を震わせながら、奴隷たちを見る。それから何を見たのか「道を、道を開けなさいッ!」と奴隷たちに命じた。
異形の奴隷たちが、海を割るように分かれていく。視界を遮るものは失われ、何が起こったのかが露になる。
――――そこには、おびただしい数の矢に射抜かれ地面に潰れた、一体の異形の奴隷が横たわっていた。
「―――――ッ」
イグナは、思わずゾッとした。何が行われたのか分からなかった。
だが、タイムによって間違いなく何かが行われ、そしてその結果として、防ぎようもなく、異形の奴隷が一体死んだ。
イグナ以上に震えあがったのは、クイルだ。
「たっ、タイムぅっ! おまっ、お前、お前は! お前は一体、な、なにを、何をやったのよぉ!」
過程が失われ、ただ結果が訪れたような死に様に、クイルは明らかに恐怖していた。瞳孔は開き、目は全開に剥かれ、歯がガチガチと打ち鳴らされている。
タイムは言った。
「102本」
「……は……?」
「102本だ。お前の異形の奴隷が死ぬ矢の数は、102本。102本の矢を一度受ければ、お前の奴隷は死ぬ」
「……? ……っ、……ぃっ!」
クイルの顔が、次第に追いついていく理解と共に、恐怖に激しく歪んでいく。
今までは人間をたぶらかし脅かす優雅な魔女だったのが、今では怪物を前にした少女と変わらない顔になる。
「―――奴隷たち! あのッ、あの男を殺しなさぁい! 今すぐ、あいつを八つ裂きにして、原型も残さないようにするのよぉ!」
まるで悲鳴のように、クイルは叫んだ。命令を受けて、奴隷たちが一斉に走り出す。
「あっ、あはははははっ! タイム! おまっ、お前はこれで終わりよぉ!? だっ、だって、あたくしの奴隷は一体でも、ベテランの銀等級冒険者と同じだけ強いのだから!」
クイルは、自らの優勢を語るというより、自分に言い聞かせるようにして続ける。
「そんな奴隷たちが、総勢86体、一斉にお前に襲い掛かったのだから、いくら強いお前でも」
「ありがとう」
「え……?」
タイムは言う。見れば、僅かにその口端が持ち上げられている。
「奴隷の数を数えるのは、億劫だった。86体だな。ならば計、8772本の矢があれば全滅するというわけだ」
「なっ、何を……っ?」
タイムの眼前まで、奴隷たちは迫っている。拳は振りかぶられ、今にもタイムを打ちのめそうとしている。
だがタイムは、ただ悠然と時計のボタンを押しこんだ。
「魔女。お前の奴隷が全滅するまで、あと一秒だ」
直後。タイムに殺到していたはずの奴隷たちのすべてが、尋常ならざる数の矢に押しつぶされ、血の海をあふれさせた。
「……え?」
それは本当に、血の海があふれたとしか言いようのない光景だった。すべての異形の奴隷は瞬時に形を失い、中に秘めていた血のすべてをあふれさせた。
床のすべてが血の波に汚れていく。端っこで身を潜めていたイグナの足もズボンも、血の波が濡らしていった。
そして、大広間の真ん中の空間には、ただ無残な肉の塊だけが残っていた。イグナは思わず、あまりに濃い血の匂いにむせ返る。
地獄。間違いのない地獄が、瞬時にそこに現れた。
「う、うそ、うそうそうそうそ! こんなのっ、こんなのうそよぉぉおおお!」
恐怖に舌すらうまく回らなくなってしまったのか、クイルは舌ったらずな口調で悲鳴を上げた。頭を抱えてブンブンと振り、訳も分からず涙を流している。
「何よ、これぇ! 何よぉっ! 何なのよぉっ! こんな、こんなのおかしいわぁ! だって、いっ、一秒って、あ、あたくしの奴隷たちは、そんな簡単に殺せる相手じゃ」
そんな悲鳴に紛れて、ちゃぷ、という水音が広間に響く。
見れば、タイムが一歩、前に足を踏み出していた。それにイグナは息を呑み、クイルは顔を引きつらせる。
「『羽ペンの魔女』クイル。お前の罪は、あの異形の奴隷たちそのものだ」
タイムは歩きながら話し始める。
「罪のない人々を攫い、その全身に
―――あんな姿ならば、ただ死んだと聞かされるのがよほど優しいだろう。
タイムは深みのある、落ち着いた声で言う。
「それがお前の罪だ。罪は償うか裁かれるしか道がない。お前はそれを償えるか? それとも裁かれるか?」
タイムの言葉に、クイルは懇願する。
「つっ、償います! 何だって、何だってします! あ、あたくし、本当はこんなことしたくなくて」
「そうか。ところで」
タイムは、言う。
「『魔王様! お願いします! あたくしは神に裁かれてでも人間を使った魔術研究がしたいの! この情熱は止められないの!』……と言ったのは、誰だったか」
「―――――」
タイムの言葉に対して、クイルの反応は早かった。
恐らく、クイルがかつて口にした言葉なのだろう。自分の探究心のために他人を犠牲にする外道の言葉。それを知られたなら、もはや償う道はない。
だから、クイルは羽ペンを構えた。イグナが叩き潰された強風の魔法が掛かった羽ペンだ。タイムは風に叩き潰される――――
時計のボタンを、押しこむ音。
「ぎゃぁっ」
気づけばクイルの腕を貫く矢が、その羽ペンを落とさせていた。タイムはいつの間にかそれを確保し、空中のクイルを眼前に羽ペンを高く掲げる。
「使い方は、こうだな?」
タイムが羽ペンを振り下ろす。頭上から襲い来た強風に、クイルは叩きつけられ血の海に沈んだ。
「がぁっ」
「これは便利だな」
タイムはのんきにそんなことを言う。
一方で血だまりに全身を汚したクイルは、もはや抵抗の手段を失って「ひ、ぃ……! た、たすけ、やだ、やだぁ……!」と後ずさるばかり。
「まだ、まだこんなところで、死ぬわけにはいかないのよぉ……! あたくしには、まだ、まだまだしたい実験が、研究があるっていうのにぃ……!」
全身を血に汚しながら、クイルは涙をこぼす。今際の際になってなおも、この物言い。とイグナはギリリと歯を食いしばる。
タイムは言った。
「『羽ペンの魔女』クイル。お前の生はあと十秒で終わる。言い残すことはあるか」
「――――地獄に堕ちろ! 正義気取りの異常者カッ」
タイムはボタンを押しこみ、三発の横並びの矢が、キレイにクイルの首を切断した。
クイルの首は空中で回転し、その体は崩れ落ちる。タイムはその首を片手で掴み、それから両手でそっと、崩れた体の上に置いた。
「……」
その姿に、イグナは何か、慈しみのようなものを感じ取った。悪人に掛ける最後の優しさ。タイムは、本当は、とてつもなく優しい人なのではと疑う。
だが、そんな気持ちも、イグナに振り返ってきたタイムの姿に吹き飛んだ。
「――――ッ! おっ、オレは、ただ、居合わせただけで」
恐怖にそんなことを口走る。イグナは自らのそんなダサい姿に、心の底から自分に失望する。
だが、タイムの口調は穏やかだった。
「知っている、少年。来るのが遅れて済まなかった」
「は……?」
ちゃぷちゃぷと水音をたててタイムは近寄ってきて、イグナに手を差し伸べてくる。イグナは血に汚れた手を気にするが「問題ない」と強引に掴まれ、立ち上がらされる。
タイムは、イグナが見上げるほど大きな大人だった。目深に被られたトップハットで顔は窺えないが、育ちの良さそうな、優しそうな顔をしていた。
「怪我は?」
「あっ、えっと、た、多分あんまりない、と思います……」
「そうか。それは何よりだった。戻ったら、医療室でちゃんと治療を受けなさい」
「は、はい……」
イグナは、優しい言葉を掛けられて、それだけで感動してしまう。
いつかに聞いた吟遊詩人の語る怪人。そんな存在に気遣われるなんて、中々できる体験じゃない。
だが、だからこそ、遅れて後悔がやってくる。イグナの頬に、涙が伝う。
「……どうした、少年」
「……お、オレ、あの魔女から逃げるために、友達を魔法で焼いたんです。時間稼ぎをするから、俺ごと撃てって言われて。たっ」
イグナの涙腺が、崩れる。
「助けてもらえるなら、オレが、オレが撃ってなければ、クロックを焼かなければ、あいつは、まだ、まだ生きてたのに……! オレが、オレが殺しちまった……!」
イグナはボロボロになって泣く。涙で前が見えなくなる。それにタイムは少し沈黙してから、こう言った。
「……案ずるな。彼のことを案じているならば、その肉の中をかき分けて探してやれ。もしかしたら、まだ息があるかもしれない」
「えっ? ほ、本当ですか! クロックは、クロックは生きてるんですか!」
「……少年」
タイムは目深にトップハットを被りなおし、イグナに語り掛けてくる。
「君は、強くなる。いつか、私と並ぶほどに」
「え……?」
「だから、これからも精進しろ。仲間と共に、強くなれ」
ではな、とタイムは踵を返し、洞窟から出ていってしまう。聞きたいことが多すぎて、その後ろ姿にイグナは追いすがろうとしたが、やめた。
「――――クロック!」
イグナは目を皿のようにして、魔女の奴隷たちだった肉の塊の間をかき分ける。
「クロック! 生きてるなら返事しろ! クロック!」
全力で名前を呼ぶ。素手で気持ちの悪い肉の塊を探し回る。
そしてやっと、命の気配を感じ取った。
「クロック……!」
「ぅ……」
意識を失っている様子のクロックが、肉の間には存在した。炭化した奴隷たちの下に埋もれていたのか、血と炭でボロボロだった。
その姿に、イグナは感極まって、泣きながらクロックを抱きしめてしまう。
「生きてた……! 良かった、本当に良かった……!」
イグナは感傷もそこそこに、クロックを炭と血の海から抜いて、その体を背負った。それから、聞こえていないことを百も承知で、話しかける。
「クロック……、お前はすげぇ奴だよ。あんな場面で、自分の命投げ捨てて、オレだけでも生かそうとするなんてさ」
自分よりも弱いし、一時は弟子として教えた相手だった。だがそれを上回ってあまりあるほどに、イグナはクロックに尊敬の念を抱いていた。
「オレ、もうお前のこと絶対に見捨てないからな。ここに誓う。だから、これからもよろしくな」
イグナは疲弊しながらも、確かな足取りで血の海を進む。洞窟を抜け、森を抜け、周囲の驚愕に囲まれ―――役目を終えたと、倒れこんだ。
ところで、すっかり存在を忘れられていたクロックの決闘の相手貴族は、数日後に洞窟の大広間の端っこで見つかった。
彼は心神喪失状態で、「魔術も復讐もこりごりだぁ~」と、実家に引きこもることになったという。
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