第十四話 ごめんなさい

 中庭に面した部屋の前までくると、女中は障子を開け宙子を中へ案内した。部屋の真ん中に敷かれた布団の中には、土気色の顔色をした飛鳥井郁子が横たわっていた。


「郁子さま、大丈夫ですか?」


 宙子の問いかけに、郁子は薄く目を開けハラハラと涙を流し始めた。


「ごめんなさい、ごめんなさい。宙子さま……」


 力のない声で謝る郁子の額に、乱れた髪が数本張り付いていた。それを払いのけ宙子は手のひらで額を覆う。宙子の力は肌を通して流れ込むと小黒が言っていた。


「お熱はないようね。手も貸してくださる?」


 郁子は素直に、布団の中から手を差し出した。宙子はあいている手で肌がカサついた郁子の手を力強く握った。


「わたくし、怖い夢を見ていて、宙子さまに悪いことをいたしました。だから、バチがあたったのです」


 宙子の首を絞めていた赤いリボンは、早紀子のものにそっくりだった。しかし、宙子が風呂場で聞いた生霊の言葉には、少しだけ京のIntonationがあった。そこで思い至ったのは、二人が履いていた草履の兎柄の鼻緒だ。


 二人はかわいいものをそろいで、持っているのではないかと思ったのだ。この屋敷にくるまでは、どうか違ってくれと思っていたのだが宙子の推測は的中していた。


「夢の話でしょ。なんにも悪くありません」


「でも、でも……」


「それ以上、おっしゃらないで」


 昨夜のことを郁子は生霊を通して、見ていたのだろう。そんなことを思い出さなくてもいいのに、なおも郁子は罪悪感からしゃべり続ける。


「わたくし、早紀子さんがかわいそうで。あんなに忠臣さまとのご結婚を楽しみにされていたから」


 心にたまった膿を吐き出していると、郁子の頬に赤みが戻ってきた。


「早紀子さまは、忠臣さまのことをお好きだったのね」


 宙子が同調すると、郁子は細い目を見開き意外そうな顔をする。


「好きなどと、そんなはしたないことではないです。侯爵家という素晴らしい家格の御縁談。おまけに忠臣さまは若く身目麗しい美丈夫でいらっしゃる。こんないい条件はないと喜んでおられて。その……いろんな方にまだ正式に決まってもいないのに、しゃべってしまわれて」


 華族の結婚は、家同志の契約のようなもの。よりよい条件の結婚をするために、令嬢は教養を身に着け外見を磨くのだ。


 令嬢の中には、財力をあてにした身分下の商家との縁談や、地位はあっても親ほど年の離れた花婿の後妻に入る人もいる。


 宙子さえ現れなければ、早紀子は条件のよい忠臣の花嫁になっていただろう。そもそも嵯峨野家の呪いさえなければ、宙子は今でも青山の家で鏡子と呼ばれていた。


「縁談が立ち消えになっても、みなさま何も表立っておっしゃらなかったけれど、影では散々笑っておられて。もうわたくし口惜しくて。早紀子さんに恥をかかせた宙子さまさえ……」


 憑かれたようにとうとうとしゃべっていた郁子の口が、突然とまった。


「もうやめて。わかりましたから」


 郁子は宙子のことを、憎んでいたということだろう。その負の感情に付け込まれた。人を恨むということは、誰しも心に抱く感情だ。宙子は、郁子を責められない。


「でも、早紀子さまが羨ましい。こんなに思ってくださるお友達が、いらっしゃるのだから」


 宙子の言葉に、郁子は静かに涙を流し始めた。


「先ほどまで、本当に死んでしまうほど苦しかったのに。宙子さまの手に触れ話を聞いてもらったら、不思議と楽になりました」


 楽になった……。肩もみや体をさすってあげた相手から、よく言われた台詞だ。やはり、わたしには癒しの力が昔からあったということがこれで証明されてしまった。


 宙子はこの力があるから、忠臣に求婚されたのだ。


 宙子は疑念から確証にかわった苦い真実を飲み込み、郁子から手を離した。


「今日はどういうご用件で、いらっしゃったのですか?」


 幾分顔に赤みの戻った郁子が訊いてきたので、宙子は懐に入れたリボンを着物の上からそっと押さえた。


「お渡ししようと思っていたものがあったのですが、慌てて屋敷に忘れてきてしまいました。ごめんなさい」


「ふふっ、宙子さまって、うっかりやさんなのですね」


 郁子の笑みを見て、宙子は『また鹿鳴館で会いましょう』と言い残し退出した。


 あのリボンは捨ててしまおう。新しいリボンをふたつ用意して、郁子さまと早紀子さまに友達の印としてお渡ししようと、宙子は思ったのだった。


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