第一章

第一話 初夏の日

 結婚式から遡り、初夏のできごとである。


 その日は披露宴で着るドレスの仕立てのため、宙子とその母は永田町にある嵯峨野家の屋敷を訪れていた。


 十畳ほどの座敷には、西洋から輸入された華やかな布がところ狭しと広げられている。その中で印半纏を着た白木屋の奉公人が次々と宙子に布をあてがい、母が一枚ずつ吟味していく。


 宙子は年ごろの娘らしく色とりどりの珍しい舶来の布に心を躍らせることもなく、ただ黙って鏡の前に突っ立っていた。宙子の全身を映すその大きな鏡は、ガラス製で西洋からの輸入品だ。


 和鏡と違いくっきり明るく姿を映す高価な鏡であっても、宙子の思うことは、早く終わればいい。ただそれだけだった。


「洋装を誂えるには、横浜まで昔は出向かなければならなかったのに、今は東京にも洋装店ができたのですねえ」


 すこし布選びに飽きたのか、母は奉公人に気安く声をかけた。目下のものに、母から声をかけるなど珍しいことだと宙子は驚く。


 よほど、機嫌がいいのだろう。


「はい、白木屋は最近洋服部を立ち上げまして、婦人服の取り扱いも始めたところでございます。おかげさまで、鹿鳴館にいかれるご婦人方にご利用いただいております」


「まあ、鹿鳴館。そのうちこの子も出向くことになるのでしょうねえ」


 上流階級の社交場として建設された鹿鳴館では毎夜舞踏会がひらかれており、着飾った上流階級のご婦人たちが出入りしていた。


「嵯峨野家の奥方さまになられるのですから、もちろんでございましょう。その時はまた、うちで新しいドレスをご注文くださいませ」


 奉公人はぬけめなくそう言うと、藤色の繻子しゅすの布地を宙子に当てた。


 淡く上品な藤色は、赤い髪に似合っていないと宙子の目に写る。そっと鏡の中の自分から目をそらせた。


 しかし、藤色は母の好きな色だった。


「あらっ、この藤色の布があなたにとても似合いますよ」


 案の定、母は宙子に似合わない布を気に入った。


 男性の奉公人でも、藤色が宙子に似合わないとわかるのだろう。少し間をおいて、微妙な表情からこびた笑いに切り替えた。


「そうでございますね。お嬢さまの白い肌によくお似合いです」


 あからさまなおもねる台詞に、宙子の背筋に羞恥のミミズが這う。客の顔色をうかがう商売人も大変だな、と宙子は奉公人に同情しつつ口をひらく。


「ええ、お母さま。わたしもこの布が気にいりました」


 宙子の言葉に、母は満足そうにうなずいた。


「では布が決まりましたら、次はドレスの形でございます。昨今の流行りはスカートを二枚重ねにいたしまして、上のスカートを……」


 奉公人の口は、すべらかにまわりはじめた。


 これでようやく座れる。宙子はそっと息を漏らすと、涼やかな風が開け放った障子の向こうから入ってきた。


 風にさそわれ庭に目をやると、空には雲の峰が連なっていた。


 あの人にあったのは霞がかかる花冷えの頃だったのに、もう夏だなんて。


 あの人……もうすぐ夫となる忠臣と出会った日のことを思い返しては、宙子は未だに狐にだまされた気分になるのだった。




 あの日宙子は、お琴の師匠の家からひとり家路を急いでいた。くすんだ茶色の縞の着物に縮れた髪を銀杏返しに結った姿は、やぼったく若い娘らしい華やぎがない。


 宙子の同級生たちは在学中に結婚が決まり、卒業を待たずに女学校を辞めていく者も多かった。宙子は十九になるのに、未だ縁談が決まらない。


 落ちぶれた士族に財力はなく、結婚する利点がないことに加え、宙子の容姿も足を引っ張っているのだろう。


 本当は女学校を卒業して上の学校にいきたかったが、弟の学費でいっぱいいっぱいの我が家では無理な話だった。


 毎日花嫁修業という建前で家事をこなし、週に一度琴の稽古に行くのが唯一の楽しみであった。でも、かといってこれという不満はない。


 母に庇護され食べるものにも困らず、淡々と日々が過ぎていく。それでいい……。


 うつむく宙子の唇から、ふっと笑いがもれる。


 これでわたしは、本当に生きていることになるのだろうか?  


 そんなせんなきことをうつむきながら考えていると、ふと人の気配を感じた。顔を上げると道をふさぐように、背の高い洋装の男性が立っていた。男性はまぶかにシャッポをかぶり、赤い唇と首元に巻かれた赤いネクタイが宙子の目に焼き付く。


 ああ、異人さんだわ。どうしよう……。


 このあたりは、各国の公使館があり日常的に外国人を見る機会が多い。それでも、彼らの日本人とはかけ離れた体躯や雰囲気はそうそうなじめるものではなく、宙子の体に緊張が走る。


 しかし、その人の横を通らねば家に帰れない。巾着を握る手に、自然と力が入る。男性の横を足早に通り過ぎようとしたら、宙子の耳に低く落ち着いた声音が届いた。


「青山宙子さんですね」


 宙子の心の臓がぎゅうっと痛みを感じ、思わず足を止める。


 どうしてその名を知っているの?


 声に出せない問いの答えを知りたいと、宙子は顔を上げる。女性としては身長の高い宙子が、仰ぎ見るほど男性は長身だった。


 その人の琥珀色の美しい瞳が、宙子を射すくめている。昔、母の化粧箱にしまわれていた琥珀のかんざしにそっくりな瞳。


 そんな懐かしい琥珀色の瞳の持ち主は、歌舞伎の女形のごとく整った顔の日本人だった。年は宙子よりいくぶん年上に感じたが、落ち着き払った態度は顔に不釣り合いなほど老成している。


 自分の名前を知っている見も知らぬ青年を前にして、宙子の頭は混乱していく。青年はそんな宙子を安心させるためか、ふわりと口元を緩めて優し気に笑った。


「私のことを、覚えておられますか?」


 そんなことを言われても、宙子にまったく心当たりはない。しげしげと男性の顔を見ても、誰の面影とも重ならない。


 何も答えない宙子を責めもせず、その人はシャッポを優雅な所作でぬぎ胸にかかげた。


「あなたは、私にとって必要な方なのです。お迎えに参りました」


 青年の言葉はけっして外国語ではない。日本語なのに、その内容を宙子はちっとも理解できない。


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