明治化け猫セレナーデ〜侯爵嵯峨野家の花嫁

澄田こころ(伊勢村朱音)

序章

披露宴にて

 江戸から東京へ名が変わり、はや十九年。永田町にある侯爵家の庭園では、結婚した若当主のための最後の披露宴が行われていた。


 大名華族である嵯峨野家の結婚式ともなれば、家中のものが小笠原流の礼法を一か月かけて家元から仕込まれることから始まる。


 古式ゆかしく取り行われた式が終わると、三日間かけて開催される披露宴が待っていた。


 一日目は親戚一同、二日目は国元から旧臣を招き、最終日の今日は花婿と花嫁の同僚や友人たちなどの関係者が集まった。


 三日間のべ数千人という招待客の接待に疲れた顔ひとつせず、主役の二人は笑顔を振りまいていた。


 落日の早い秋の日、披露宴会場である屋敷の庭に茜色の夕日がさし、昼から始まった宴はそろそろお開きの時刻。


 回遊式庭園には丸い洋卓がいくつも並べられ、銀の皿がずらりと乗せられていた。


 銀の皿の中にある、鴨トリュフ、若鳥のマヨネーズ、牛背肉の煮込み、サンドイッチなどの料理も残り少ない。


 二日間の披露宴で花婿は五つ紋の入った羽織袴、花嫁は黒地に松と鶴の刺繍の入った引き振り袖姿だったが、気楽な関係者との最終日の宴では、二人は洋装をまとっていた。


 春にイギリス留学から帰国した当主、忠臣ただおみは黒の燕尾服を颯爽と着こなし、柔和な笑みをたたえた姿に会場中のご婦人方が注目する。


 そんなご婦人方を含む招待客は楽団が奏でる西洋音楽に耳を傾けつつ、盛大な宴を口々にほめそやしていた。


 そのささやきは、濁った澱のように玉砂利の上に重く黒くたまっていく。


「お母さま。忠臣さまは、光源氏もかくやという美丈夫でいらっしゃるのね。わたくし初めてお目にかかりましたわ」


 忠臣の勤め先である外務省の同僚の妻と娘は、ひそひそと言い合っている。


「本当にねえ。奥さまになられる宙子ひろこさまがうらやましい限りですね」


「ねえ、でもよくこのご結婚が許されたわね。宙子さまのお家って華族ではないのでしょ。元は大身の旗本でらっしゃったけど、新しい世ではずいぶん落ちぶれ……」


「しっ!」


 娘のあけすけな言い草を母はすばやく制し、声をひそめた。


「なんでも、忠臣さまがお小さい頃に宙子さまと出会われて、お見染めになったそうよ」


「まあ、素敵! 筒井筒の仲でいらっしゃるのね」


 男女の仲に幻想をいだきたい娘の声は、耳障りにもうわずる。


「普通なら、宮内大臣のお許しが下りないんでしょうけど、なんせ今の大臣さまは嵯峨野家の元家臣でいらっしゃるから」


 華族の婚姻には、宮内大臣の認可が必要だった。華族は一応平民との婚姻をゆるされているが、それは制度上であり慣習ではない。


 娘の視線は隣に立つ母から、真珠と花飾りが散りばめられ豪華なドレス姿の宙子へ移る。流行りのバッスルスタイルのドレスは、お尻のあたりが大きくせり出し腰は折れてしまいそうなほど細かった。


「ああ、わたくしも小さい頃に忠臣さまに出会っていたら……」


 娘は忠臣の一歩後ろにつつましく控えている宙子を見て、うっすらとあざけりの笑顔を張り付かせた。


「馬鹿なことおっしゃい」


 母は一応、娘をいさめたが同じような嘲笑を浮かべた。


 元旗本の士族の出である宙子にとって、侯爵家との縁組は身分を越えた婚姻でありローマンスであった。その分、妬みの視線を一心に浴びることとなる。


 宙子の容姿はけして劣ってはいないが、忠臣のような華のある容姿とは言いがたい。


 ドレスを身に着けた宙子の体に女性的な丸みはなく、痩せていた。意志の強そうなはっきりとした二重に鼻筋は通っているが、眉は太く唇は厚ぼったい。一番いけないのは、髪が赤く縮れていることだった。


 昨今の西洋化熱に浮かされ、西洋人のような赤い髪は美しいと言われるようになったが、それはあくまで建前である。


 まだまだ大和撫子は、濡れ羽色の艶髪が美の基準であった。


 今日の宙子のドレスは淡い藤色で、束髪に結われた赤い髪に似合っていないこともまた、嘲笑の的になっている。


『どうしてこんな娘が、嵯峨野家の花嫁に』


 そんな内心が顔に出ている親子から数歩下がった洋卓では、忠臣の学習院時代の同級生たちがシャンパン片手に塩漬けの牛肉をつまんでいた。


 忠臣は十五の年からイギリスに渡り、医師の家に下宿をしながらオックスフォード大学に入学するほどの才人であった。


「しかし、忠臣も留学から帰って早々に嫁をもらうとは、せっかちな奴だな」


 黒縁眼鏡をかけた男が、隣に立つ蝶ネクタイの男に話しかける。


「忠臣もさみしかったんじゃないか? 姉上や妹があんなことになって……」


「まあな。俺たちもびっくりしたよ。続けざまだったからな。コレラにでも罹ったのかな」


 黒縁眼鏡の言葉に、蝶ネクタイの男は目を細める。


「おまえ、知らないのか?」


「えっ、何をだよ」


 二人は忠臣と宙子が上司である外務卿と談笑している姿を見ながら、声を落とす。


「姉上は、獣に食い殺されたような死に様だったとか」


 黒縁眼鏡の持っていたグラスの中のシャンパンが、大きく揺れた。


「はっ? どういうことだ。屋敷に野犬でも出たって言うのか」


 蝶ネクタイの男は、ますます声をひそめる。


「ここは、嵯峨野家だぞ。化け猫じゃないかって噂だ」


「化け猫!」


 黒縁眼鏡の持っていたグラスが、とうとう玉砂利の上に落ち、無残にも砕け散った。その刹那、耳をつんざく女の悲鳴が会場中にとどろき渡る。


「きゃー、宙子さま!」


 招待客の視線は吸い寄せられるように、宴の中心にいる忠臣と宙子に集まった。


 しかし、先ほどまで忠臣の後ろでほほ笑んでいた宙子の姿はそこにない。人々が視線を下げると、藤の房が落下したがごとく宙子は倒れていた。

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