第二話 突然の求婚
茫然と立ち尽くす宙子の後ろから、人力車のガラガラと車輪が砂を巻き上げる音が聞こえてきた。
「どいた、どいた!」
威勢のいい声は当惑する宙子の耳を素通りして、どんどん近づいてくる。
「失礼いたします」
青年の声とともに、肩に大きな手がふれ引き寄せられ、寸でのところで宙子の後ろを人力車が走って行った。
宙子の目の前には、頬が触れそうな距離に青年の胸板がせまっていた。一度だけ見た外国人の男女が親密に寄り添う姿に、そっくりな自分と見知らぬ青年。
宙子は胸がときめくどころか、肩をつかまれた力が瘦身の青年には意外なほど力強く怖気づく。
こんなところを誰かに見られたら、何と言われるか。もしお母さまに知られたら。
恐れよりも世間体を気にしていると、ぼそりと「間違いない」と言う青年のつぶやきが耳に落ちてきた。
宙子は肩に乗せられた青年の手を、思わず払いのけていた。
「申し訳ありません。若いご婦人に触れるなど、無礼でしたね」
後に流していた髪が乱れ形のいい額に垂れていた。その髪をかきあげながら、青年は素直に詫びた。
助けてもらったのに、礼を述べるどころか手を払いのけた宙子の方が、無礼千万である。
青年の優しさを感じた宙子だが、ますます居心地の悪さが増していく。早く、この場から逃げ出し家に帰りたい。その一心で宙子は乾びた喉から声を絞り出す。
「ごめんなさい」
宙子はあっという間に、青年に背をむけ駆けだした。すると後ろから青年の言葉が追いかけてきた。
「日をあらためて、申し込みに伺います」
宙子は足をとめずに考える。
何を申し込むの? 借金?
宙子にとって、人に何かを申し込むといえば、借金しかなかった。
青山家は旧幕時代には裕福な旗本であったが、宙子が物心つくころにはすっかり落ちぶれていた。
幕臣は幕府が瓦解したおり、新政府に出仕するか徳川宗家の新しい当主となられた家達さまについて駿府へ赴くかふたつの選択肢があった。
父は後者の道を選び駿府藩の役職についたが、それも一時のことで、廃藩置県により藩がなくなると幾ばくかの報奨金をもらい失職した。
駿府にいても仕事はなく、かつて江戸と呼ばれたここに舞い戻ってきたのだ。今は、新政府の下級役人におさまり、番町の役宅に住んでいる。
江戸から駿府、東京へ移住するたび、青山家の財産は減っていき、母の着物もずいぶん質に入れられた。そんな貧乏な暮らしの中で、ひとつ上の姉の
もともと父は婿養子で、母が青山家の一人娘だった。蝶よ花よと育てられた母にとっては、身を削るほどつらい事態だっただろう。
お金がないうちに、借金を申し込むなんて変な人。……ひょっとして、借金取りとか。そっちの方が、ありえるかも。
青年の身なりを考えると、借金取りがしっくりとくる。謎の美青年借金取り。ふと馬鹿な文句が頭に浮かぶ。宙子の中の居心地の悪さが幾分やわらいだ。
そんな正体不明の青年の使者は、ほどなくして青山家を訪れた。
嵯峨野家の遠縁だと名乗る使者は、父の上司でもあった。立派な髭を蓄え黒紋付の羽織はかま姿の上司は、威厳を保ち上座に座っている。
突然の上司の来訪に驚く父の前に、上司は釣書と一枚の写真を重々しく差し出した。
釣書とは縁談のさい、相手に自分の家の系譜や身上を知らせる書面である。
「今日は、嵯峨野家の当主忠臣さまより釣書をお預かりした次第。どうかそちらのお嬢さんとのご縁組みよろしくお願いいたす」
この日、母は持病で臥せっており、弟は休日だが学校へ行っていてこの場には父と宙子しかいない。二人は、あっけにとられる。
嵯峨野家といえば、元は九州の大大名。新しい世では、侯爵を授かった大名華族である。そして、嵯峨野家にまつわるある言い伝えも宙子は知っていた。
嵯峨野家の化け猫騒動は、歌舞伎の演目になるほど有名な話だった。化け猫が奥方を食い殺して、その奥方になりすまし夜な夜な行燈の油をなめている。それを家臣が退治するという筋書きだった。
父が宙子に渡した写真の中で少し斜めを向き薄く微笑みをたたえる顔は、間違いなく先日のあの美しい青年だった。
つまり宙子が会った謎の青年は、侯爵家の若き当主嵯峨野忠臣だったというわけだ。
わたしなんかと結婚したいって、意味がわからない。この人になんの得があるというのだろう。
宙子は写真を握りしめ、この夢のような話を飲み込めずにいた。
半信半疑な様子で釣書を読んでいた父が、おずおずと口を開く。
「嵯峨野さまとうちは、昔も今もなんの御縁もございませんのに、急なお話でなんと申せばよいやら……」
「まあ、無理もない。わしも数日前に言われて仰天した次第でね」
「しかし、あちらとうちではあまりに家格が違いすぎます。お支度も満足にはできかねますし」
名家へ嫁ぐとなれば、それ相応の嫁入り道具をそろえないといけない。そんな大金は、このうちになかった。
「まあ、その辺はあちらがすべて費用は出すとおっしゃっている。お嬢さんは身ひとつで輿入れされるといい」
「しかし……」
父がしぶると、上司は親し気に父の肩をたたいた。
「まあまあ、娘さんを心配する親心はわかりますよ。でも、こんないいお話がどこにあるかね。忠臣さまの人柄はわしが保証する。留学から帰国後は外務省に出仕されていて、そのうち公使に任命されるのは確実。近い将来夫婦そろって外国で暮らすことになるだろう」
「はあ……外国暮らしですか」
父は自分の想像を超える話に、頭がついていっていないようである。
「すぐに返事をしかねるのは道理。忠臣さまが一度お嬢さんとお会いしたいそうだ。詳しいことはご本人に訊くといい。それから決めても、遅くはないよ」
上司は宙子の方へ、有無を言わせぬ視線を送る。
「お嬢さんも、忠臣さまにお会いしたらその男ぶりと人柄にほれ込むこと間違いなしだ。どうかね、会ってみては」
もうとっくに会っていますとも言えず、宙子はあいまいに笑う。
「そうですね、おっしゃる通りです」
父が、宙子に代わって返事をする。その言葉を合図に、他人事のような心持ちで宙子は頭をさげていた。
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