第三話 再会
使者が青山家を訪れてから数日後、宙子は紫地の
正午の号砲がちょうど北の丸の方角から聞こえきた。ちらりと前を伺うと、嵯峨野家の家令である田辺が目をふせ神妙な顔つきで座っている。
宙子の父と年の頃は変わらない田辺だが、この年齢の男性特有の押しつけがましさがない。先日青山家を訪れた父の上司は、見るからに居丈高だった。
影の薄い田辺に、宙子は車内の沈黙に耐え切れず話しかける。
「あの、どちらに向かわれているのですか?」
馬車はちょうど九段坂をのぼっていた。
さきほど宙子を迎えにきた田辺はただ『忠臣さまが、お待ちでございます』としか言わず、宙子を馬車に乗せた。
「本郷にある、嵯峨野家の別宅でございます」
田辺は、宙子の問いに簡潔に答えた。
もっといろいろ聞きたいことはあるが、これ以上話しかけるのははしたない。宙子はうつむき、膝に乗せた手のひらで絞りの凹凸をそっとなでた。
この振袖は娘時代の母のお気に入りだった。母は今日、宙子にこの着物を着せる時、質屋に何度も入れようと思ったが思いとどまってよかったと涙ぐんでいた。
忠臣からの突然の求婚を、母は怪しむどころかもろ手をあげて喜んだのだ。たとえ華族でなくとも青山家ならば、侯爵家と家格は釣り合う。母の頭の中はいまだに旧幕時代でとまっていた。
しばらく走り、馬車はようやくとまった。
唐破風の豪壮な玄関前で降ろされると、屋敷の中に入るのではなく庭に案内された。そこには、大きな八重桜が今を盛りに咲いている。
その下に消し炭色の洋装をまとった忠臣が立っていた。濃い桜色を背景に墨絵で描かれたような貴公子の姿は、一幅の絵のように華麗だ。
忠臣は宙子に気がつくと、まっすぐに歩み寄ってきた。
「ようこそ、宙子さん」
低くやさしい声音で名前を呼ばれ、宙子は慌てて頭をさげた。
「お招きいただきありがとう存じます」
「ときに宙子さんは、歩くことはお好きですか?」
「はっ?」
宙子の素っ頓狂な声が、玉砂利の上に落ちる。おずおずと顔を上げると、脈略のない台詞を言った張本人は、にこにこと宙子の顔を見返していた。
この人、何を考えているか全然わからない。
この時代の移動手段は、基本徒歩である。歩くことは生活の一部で、好き嫌いで判断できるものではない。人力車や鉄道馬車もあるが、宙子はいまだに乗ったことはなかった。
ましてや、馬車など宙子のような庶民には夢のような乗り物だった。
こういう風に訊くってことは、好きと言ってほしいってことかしら。
宙子はニコリと笑い『好きです』と言おうとしたが、「そこそこ?」とあいまいに答えていた。
忠臣の清廉な顔つきを見ていたら、心にもないことは言えないと思ってしまったのだ。いつもは家族であろうと、本心を隠し相手の望むことなど容易く言える宙子なのに。
「では、昼食の前に散歩に出かけましょう。お付き合いください」
「散歩?」
聞きなれない言葉に、宙子は戸惑う。
「はい、目的もなくぶらぶらと歩くことです。西洋から伝わった新しい風俗で、健康にもいいのですよ」
目的もなくただ歩くなんて、なんの意味があるのだろう。というか、二人で屋敷の外を歩くのは……。
「あの、それは困ります。人の目がありますし」
まだ夫婦でもない男女が外を歩くなんて、武家として厳格に育てられた宙子には受け入れられない行為だ。忠臣も同じはずなのだが。
「ああ、お気になさらず。近くに東京大学、今は帝国大学と言うのですが、そこの学生がこのあたりに多い。文人も多く住み着く街です。進歩的な考えのものが多いから、安心してください」
そんなことを言われても、ちっとも宙子は安心などできなかった。ますます理解に苦しむ宙子をみすかしたのか、忠臣は言葉を付け足す。
「それに、私たちはもうすぐ夫婦になるのですから」
『わたしはまだ、了承したつもりはありません』
喉元までせり上がってきた台詞を宙子はグッと飲み込み、忠臣の強引さを甘い砂糖でくるんだような要求に従うしかなかった。
お供をつれず、本当に二人きりでの散歩となった。高台にある屋敷を出て、忠臣は迷うことなく坂をくだって行く。坂の下には東京の街がひろがり、宮城の新緑が目に鮮やかだ。
その宮城の手前に木でくみ上げられた足場に覆われているのは、現在建築途中のニコライ堂だった。完成すれば宮城を見下ろすことになり、不敬にあたるという声が上がっているそうだ。
そういう話は伝え聞いていたが、ニコライ堂をはじめて宙子は目にした。
しぶしぶ出かけた散歩であったが、宙子は意外にも気持ちが上向いていくのを感じていた。
風はまだ冷たいが、日差しはポカポカと温かい。そして眼下に広がる珍しい景色。数歩前を行く忠臣は、天頂からたっぷりと陽光を浴びている。そののんびり歩く姿から、宙子の中でさきほどの強引さは帳消しになっていた。
それだけではなく、時おり宙子の歩みを確認して速度をゆるめてくれるほどよい距離感。振り返るたび、うれしげに微笑まれるのもなんだか面はゆく感じる。
わたし、こんなふうに街を歩いたことはないかも。
家の外へ出る時は、用事がある時に限られる。遅くなると母が心配するので、いつもあわただしく帰宅していた。
忠臣が宙子を散歩に連れ出した思惑はわからないが、あれこれ考えるより今はこの状況を楽しもう。
この人は意味の分からないことを言う怪しい人ではなく、むしろ優しい人なのかも。
忠臣は神田明神を通り過ぎ、昌平坂をくだって行く。この先にあるのは、孔子像を祀っている湯島聖堂だ。
忠臣は坂をくだり切ると、湯島聖堂の門をくぐった。宙子も後に続く。
石畳を歩いていると、宙子はふとなつかしさを覚えた。ここにほんの小さな頃、母に手を引かれ訪れたことを思い出した。
今日のように誰もいない聖堂ではなく、人並みにもまれながら石畳を進んだ。お祭りのような人出に、驚いたことを覚えている。
あれは、なんだったのだろう。
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