第四話 湯島にて
階段をのぼると、目の前に大成殿が姿を現した。大成殿の前庭で忠臣はようやく歩みをとめた。
「ここを、覚えておいでですか?」
「はい、昔来た覚えがあります。でも、とても小さな時だったから」
「では、手をつないで会場をいっしょに見て回った男の子のことは?」
「男の子?」
「そうです。あなたの質問ぜめに答えた男の子がいたはずです」
あいまいだった宙子の記憶が、だんだんと日の光を浴びたように鮮明になっていく。
そうだ、ここで珍しいものをいっぱい見た。大きな金のしゃちほこや、動物の剥製。それらの剥製をひとつずつ指さし、なんていう名前だと聞いたら、年上の男の子が笑いながらすべて答えてくれた。
あの優しい男の子は、誰だったのだろう。
「わたしは、たしかここに母と姉と来たはずなのに」
「あなたはあの時ここで、はぐれたのですよ。私がどうしたのって訊いたら、あっけらかんと『かかさまとねねさま、どっかいっちゃった』とおっしゃっていました」
「あなたが、あの時の男の子?」
忠臣は、ようやく答えにたどり着いた生徒をねぎらうように微笑んだ。その笑顔の片隅に、あの時の男の子の優しさが滲む。
「今から十四年前、ここ湯島で博覧会が行われた。私は数えで九つでした」
忠臣は過去のできごとを話し始めた。
「先ほどの嵯峨野家の別宅から、私は博覧会に毎日通ったのです。とてもおもしろかった。鷹や猪の剥製。古の金印や大きな名古屋城のしゃちほこ。それらを見る人々の喜色満面の様子。新しい世の空気がここに満ちていました」
十四年前だと、わたしは五つ。東京に来たばかりの頃で、珍しい催しがあると母とそのころまだ生きていた姉と三人で出かけた。夢中で見て回っているうちに、はぐれてしまったのだ。
「あなたは親とはぐれたのに、泣きもせず私にいろいろ訊いてきました。見慣れぬ文字の浮き出た板を指さして、あれは何と」
忠臣の言葉を受け、宙子の頭の中にその珍しい板と男の子に教えてもらった言葉がよみがえる。
「アメリカの新聞!」
「そう、新聞の原版です。あれを元にして新聞を刷るって言ったら、新聞って何とまた訊かれて」
忠臣は軽く握った拳を口に当て、クスクスと笑い出した。
小さな宙子が見たこともない珍しいものに目を輝かせる横で、同じような顔をしていた男の子。
この人は自分と同じ気持ちなのだと思うと、子供心にうれしくてしかたがなった。その男の子が、時を経て今目の前に立っている。
信じられない奇跡に、宙子の凪いだ心は珍しく大きくうねり始めた。そのうねりに娘らしい甘さが、ほんの少し含まれていることを否定できない。
宙子は小さな頃、大人に質問ばかりする子供だった。そんな宙子を母は、女の子なのに賢しらなことを言う子だと、とても嫌がった。
そう言われたそばから、賢しらって何と訊いた。そんな時は決まって、いい加減にしなさいと納戸に押し込まれたのだ。
おまえは鏡子と違ってなんて強情なんだと、よく怒られもした。姉はとても大人しく従順な子供だった。
おまけに宙子は、誰に似たのか赤い髪にくせ毛という外見だ。くせ毛なのは意地が悪いからだとも言われた。
そう宙子は、母親にまで疎まれるような子だったのだ。
宙子は苦い過去から目をそむけ、ふと忠臣を見る。忠臣は笑うのをやめてあの頃の母と違い、とても優しい目で宙子を見つめていた。
この笑顔を信じてもいいのだろうか?
忠臣の、赤く形のよい唇がゆっくりと開く。
「宙子さん、私はあの時の好奇心旺盛な少女が忘れられなかったのです。イギリスから帰り、すぐにあなたを探しました。結婚するなら、見も知らぬ女性ではなくあなたがよかった」
結婚前の娘なら誰もが憧れる台詞を忠臣は語った。ここまでなら、宙子は心から忠臣を受け入れたかもしれない。けれど後に続いた忠臣の言葉に、宙子の甘い気持ちは霧散した。
「私には、あなたが必要なのです」
春の強い風が、一瞬二人の間を通り抜けていく。振袖の裾がはためき、あわてて手で押さえた。ざらりとした絞りの布地の感触が、宙子の胸をざわつかせる。
……わたしが、必要? そう言えば、最初に会った時も同じことを言っていた。
必要って、どういうこと?
必要とされるということは、何かの役に立つということ。母におまえは姉に比べ役立たずだと散々言われてきた宙子だ。
わたしに必要とされる、価値なんてない。
視線を上げると、美貌の侯爵家の当主が琥珀色の瞳を細め見下ろしている。こんな完璧な人が自分に求婚している。
哀れな姫君が貴公子に求婚される古の夢物語は、しょせんつくりごとだ。現実にそんな夢のような話があるのなら、裏に何か隠されているに決まっている。
先ほどまで忠臣が放つ甘さに染まりかけていた宙子の心は、一気に警戒の色を強める。
たしかに宙子は、ここで親切な男の子に出会った。お互いの記憶が一致するのだから、その人はまちがいなく忠臣なのだろう。
でもそれだけの理由で、侯爵家の当主の求婚理由にはならない。元大名家の花嫁ともなれば、同じ家格の家から迎えるのが常識だ。
実際、この忠臣にもたくさんの縁談があることだろう。それらをすべてけって、わたしを選ぶ理由がわからない。
選ばれた理由が好ましいという感情のみなら、そんな頼りないものを鵜呑みにするほど、宙子は素直ではなかった。
人は変わる。あっけないほど。
昨日まで世話をしてくれていた女中が、次の日には青山家の家宝をひとつくすねて姿を消した。仲がいいと思っていた同級生は、宙子が没落した旗本の子だとわかると小馬鹿にした。母だって、ある日突然変わったのだ。
たった九つの男の子が、五つの女の子のことが忘れられないなんてことが、あるわけがない。
ふと、嵯峨野家の化け猫の話を思い出す。
化け猫に食われた奥方さま。ひょっとしたら、わたしも化け猫に食われるのかもしれない。化け猫への餌代わりに、わたしが選ばれたのなら納得もできる。そうならば、この人の思いを突っぱねるのが道理。
しかし宙子は、忠臣の望む通りの返答を微笑みながら口にしていた。
「うれしいです。わたしもあの時の男の子のことが忘れられなかった」
宙子の言葉に忠臣はすっと右手を差し伸べ、くしゃりと端正な顔をくずして笑った。
「では、結婚していただけますね」
宙子はしおらしくうつむき、嵯峨野家の若き当主の手にそっと自分の手を乗せた。その手が意外なほど冷たくても、宙子は離さなかった。
「はい。不束者ではございますが、よろしくお願いいたします」
結婚もせず母の元にいても、自分を殺すことに変わりはない。同じ殺されるなら宙子として、殺される方がましだ。でも、ひとつだけ確かめたいことがあった。
「あの、お尋ねしたいことがございます」
「はい、なんなりと」
「宙子という名をどこで、お知りになりました?」
「あなたが、ご自分で名乗られましたよ。私が名前を尋ねると、かわいらしい声で『宙子だよ』と」
忠臣は、宙子の名前を憶えていてくれた。たったそれだけの理由で、宙子は忠臣の手を取ってよかったと思った。
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