第九話 青い月

 武家の男子は料理をしないどころか、厨房に入ることもしない。宙子の父もそうであった。それなのに忠臣は、宙子のために無花果をむいてくれた。


「この無花果は、使用人が住む長屋の近くに木があるのですよ。私は子供の頃、親に黙ってよくその木からもいで食べていました」


 きれいに皮をむかれた無花果を宙子は受け取り、とろりと柔らかい果肉を一口かじると、芳醇な甘さが口に広がる。


「甘い。美味しいです」


「よかった。宙子さんは、食べ物の好き嫌いはありますか?」


「好き嫌いはありません」


「西洋料理は?」


「食べたことが、あまりなくて……」


「西洋料理は、滋養が豊富なのですよ。肉食には、なかなか慣れないでしょうけど」


 宙子が倒れたから心配して、滋養のある西洋料理を忠臣は進めてくれているのだろう。


「母は匂いが嫌だと、申したことがありました」


 西洋料理は、高額だ。市中に西洋料理の店が増えたとはいえ、青山家ではなかなか気軽に出かけるようなところではなかった。


「まあ、たしかに。私も初めて食べた時は、鼻をつまみましたよ」


「えっ、鼻を? 怒られませんでしたか」


「もちろん怒られました。子供でしたからね。行儀が悪いって」


 今は大人の落ち着きを身に着けている忠臣に、そんな子供の時があったなんて。宙子は鼻をつまんで怒られる忠臣を想像して、クスクスと笑い出した。


「わたしが湯島でお会いした方は、ずいぶん頼もしいお子さまだったように思うのですけど」


「あなたの前では背伸びしていましたが、私はやんちゃでね。だから、その無花果の味も知っているのです」


 華族の跡取り息子が、使用人の住む長屋に近づくことは禁じられていただろう。ましてや、木になっている果実をもいで食べるなんてもってのほかだ。


「わたしもこんなおいしそうな無花果がなっていたら、木に登ってでも取りに行っていましたわ」


 宙子の言い草に、二人は同時に吹き出した。


「湯島で会った女の子なら、そうしたでしょうね。でも成長したあなたはずいぶん大人しくなられた」


 忠臣の言葉に、ふと宙子は食べかけの無花果に視線を落とした。


「いつまでも、子供ではいられませんもの」


「私たちは、あの頃から今に至る時間を埋める必要がありそうですね」


「それは、どういう意味でしょう?」


「あなたとの婚姻は、半ば強引に進めてしまいました。私たちは、お互いのことを知らない。もっと知ってから、夫婦になった方がいいと思うのです」


 夫婦になるということが、アレを指していると宙子にもわかった。たしかにお互いに知らないことは、山のようにある。


 宙子が一番知りたいことは、花嫁に選ばれた本当の理由。そのことを忠臣に問いただすには、二人の間に横たわる鈍色の闇にまだ一筋の光もさしてはいなかった。




 忠臣は、「おやすみなさい」と宙子に言うと客間に入り扉を後ろ手で閉めた。天井まである窓から煌々と月影が落ちている。


 窓際によるとそっとレースのカーテンに触れ、隙間から天頂をすぎた青い月に見入る。陽光とは違い、熱を感じない冷めた光を顔に受け忠臣は目を閉じた。


 ――小黒、起きているのだろ。


 ――なんだよ。文句なら聞かねーぞ。


 忠臣の胸の内で、ふたつの声が交差する。


 ――あれほど勝手なことはするなと言ったのに。宙子さんに、何をした。


 ――はっ、おまえに意気地がねえから、あいつを抱きに行ったに決まってるだろ。まっ、最後までしてねーけど。ちょっと、唇をいただいただけだ。でも、たったそれだけじゃあ満たされないぞ。


 ――それ以上は……、がまんしてくれ。


 ――ちっ、別に俺が抱いてもいいだろ。おまえ宙子に全然好かれてねえんだから。


 ――そんなことは、わかっている。


 ――ふん。まっ、宙子が俺に惚れたら遠慮なくいただくからな。俺、あいつのこと気に入ったから。


 ――おまえの好きにはさせないよ。


 ――さあ、どうだか。あいつがおまえに惚れるかな?


 ――たとえ恨まれようとも、彼女をなんとしても手に入れる。嵯峨野家のために。


 忠臣は窓ガラスにもたれていた体をけだるげに起こし、寝台へ向かった。


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