第八話 無花果
宙子の眉がどんどん弱々しく、下がっていく。
「弱った顔もなかなかくるな」
そう言い不敵に笑われると、宙子はもうなすすべもなかった。観念した宙子の上で、小黒は勝ち誇ったように片眉を上げたが、その顔がみるみるゆがんでいく。
「くっそ、ここまでか。忠臣が目覚め、る……」
そう言い残すと小黒は、糸の切れた凧のように宙子の上に倒れ込んできた。
「あの、どうされました?」
宙子に覆いかぶさる小黒の体は、肩をゆすってもぴくりとも動かない。宙子の貞操の危機は、どうやら回避されたようだが、突然倒れた小黒の容態も気になる。
宙子は重い体の下からなんとか這い出し、小黒の口に手をかざすとほっと胸をなでおろした。
「よかった、息をされている」
一息ついて宙子は寝台に小黒を寝かせたまま、部屋を出て階下へ向かった。目覚めた体に宿るのが、小黒か忠臣かわからない状態で同じ部屋にいるのが怖かった。それと、安心したら急に空腹を感じたのだ。
一階の角にある台所に、足を踏み入れる。この洋館の台所は土間ではなく、床板が全面に敷かれていた。
窓から月明かりが入り、ランプをつけずともぼんやりと室内は明るい。女中が二人、明日の朝から家事や雑用をしてくれることになっていた。
何か食材はないかと探していると、流しの横に無花果がおかれていた。そっと持ち上げるとやわらかく、よく熟れているようだ。
宙子は心の内で、『ごめんなさい』とつまみぐいを謝り無花果の皮をむき始めた。
「宙子さんですね。具合はどうですか?」
突然の声に飛び上がりそうになったが、落ち着いた声音と上品なもの言いは忠臣に間違いない。
宙子がゆっくり振り返ると、ランプの灯りに煽られた忠臣はいつものように、穏やかにほほ笑んでいた。宙子は口角の上がった薄い唇についつい視線が向かう。
この唇に先ほどまさに食べられたかと思うと、かっと顔が赤らむ。そのさもしい表情を隠すために宙子は流しの前で頭をさげた。
「あの、大変申し訳ございませんでした。大事な披露宴の最中に倒れてしまうなんて」
「そんなことは、どうでもいいのですよ」
忠臣はそう言いながら台所に入ってくる。台の上にランプをおくと、一気に室内が明るくなった。
「お気遣いありがとうございます。もう、大丈夫ですので」
「医師の見立てでは、コルセットが苦しくて失神したのだろうと。鹿鳴館でも、倒れる方が多いとか」
忠臣はふと視線をさげ、赤い唇からかすかな笑いをもらす。
「お腹が減りましたか?」
宙子は持っていた皮が半分むかれた無花果を、あわてて背中に隠した。
「あの、これは、その……」
しどろもどろに言い訳をする宙子の目の前で、忠臣は慣れた手つきで水屋から皿を取り出した。
「貸してください。私がむきましょう。ここに座って」
忠臣は作業台の下から丸椅子をふたつ引き出すと、宙子にすすめ自分も腰かけた。宙子はおずおずと無花果を差し出し、椅子に座った。
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