第七話 金の目

 抗い振り払いたい衝動をこらえ、宙子は母の言いつけ通り硬く目をつむった。


「なんだ、震えているのか」


 息がかかりそうな距離で発された忠臣の声に驚き、宙子は思わず目を開けると忠臣の顔が鼻先に迫っていた。


 垂れた前髪の奥で、宙子を不思議そうに見る瞳が怪しく金色に光っていた。金色の丸い瞳の中が、獲物を捕らえる猫のように細く黒く割れている。


 そんな瞳を持つものは、人間であるはずがない。宙子が冗談で想像したとおり、忠臣は化け猫だったということか。


「わたしを、食べに……いらっしゃったのですか?」


 震える宙子の声に、金色の瞳の忠臣は赤い舌で唇をぺろりとなめた。


「まあ食うといえば、おまえを食いにきた」


 その言葉に、宙子の全身に怖気が走る。実家で姉の鏡子として暮らすぐらいなら、化け猫に食われた方がましだと思っていたのに、いざ食われるとなると命がおしくなる。


 まだ十九年しか生きていない。死にたくない。誰か助けて!


 そう心の中で叫んで、ふと気が付く。あの守り刀さえあれば、守ってもらえたかもしれない。しかし、宙子が倒れるという不測の事態ゆえ、刀などおいていなかった。もう宙子を救うのは、宙子しかいない。


 力で抗っても勝てないのだから、ここは時間稼ぎをするしかないと策を巡らせた。


「あ、あの、わたし……美味しくないと思いますけど」


 的外れな抵抗を試みても化け猫は意に介さず、宙子の頬を冷たい手で包み込む。親指で、宙子の固く結んだ唇をなぞった。


「まあ、肉付きはよくないが、この白い肌はきめ細やかで正直そそるな。それに、このぽってりとした唇は、いかにもうまそうだ」


 そう話す赤い唇から、宙子は目を離すことができない。この形のいい唇が猫の口のように両端が裂け、いまにも宙子をひと飲みにしそうだった。


 とりあえず、何かしゃべらないと食べられてしまう。意味のないことでも、何でもいい。しゃべっている間は殺されない。


「食べられたら、痛いですよね。痛いのは嫌なのですけど」


「痛いのは、一瞬だ。そのうち具合がよくなり、気持ちよくなる」


「死ぬのに、気持ちよくなるのですか?」


 宙子のあげた素っ頓狂な声に、忠臣の眉間にしわがよる。


「おまえ、なんの話をしてんだよ」


「えっ、あなたは化け猫で、わたしを食べるのでしょ?」


 しまった。人間に化けている化け猫に、正体をわざわざ言ってしまったら怒らせるだけだ。宙子が心配したように、忠臣は不機嫌な声を出した。


「はあ? まさか本当に、俺が食べると思ってんじゃないよな」


「だって、食いにきたって……」


 忠臣は、大きなため息を宙子の胸の上に落とした。


「生娘は、扱いづらいな。あのな。俺はおまえを抱きにきたんだよ」


「はっ? 猫が人間を?」


「どんな変態だ。体は忠臣だろ。中身だけ、俺になってんの」


「俺って、誰ですか?」


 忠臣の前でずっと演じてきた貞淑な妻をかなぐり捨て、宙子は次々と疑問を口にする。時間稼ぎというよりも、好奇心が勝っていた。


「おまえもさっき言った、化け猫だよ。名前は小黒おぐろだ」


「ちょっと、おっしゃる意味がわからないのですけれど」


 忠臣が化け猫なのではなく、小黒という化け猫が忠臣に憑いているということだろうか。それならば、当の忠臣の意識は今どうなっているのだろう。


「ああもう、説明はあとだ。とりあえず、抱かせろ。体は忠臣なんだからいいよな」


 小黒と名乗った化け猫は、ぐっと顔を近づけ宙子の唇をふさいだ。突然の口づけに宙子は、息もできず苦しくなり小黒の胸を拳でどんどんと叩く。


 その時がきても、決して嫌がらず騒ぐなという母の教えなどとうに頭から吹き飛んでいた。


 宙子の息苦しさをわかってくれたのか、小黒が唇を離したと同時に、宙子はぷはっと大きく息を吸い込む。


「おまえ忠臣に抱かれるの、嫌なのか?」


 苦しくて涙目になっている宙子に、小黒は怪訝な顔つきをする。


「嫌というか、妻の務めなので、しょうがないというか……」


 宙子は言ってはいけない本音をこぼしていた。その前に体は忠臣でも中身が小黒なのだから、この場合抵抗するのは当たり前のことだと、宙子は思いいたらなかった。


「妻の務めって……。それって、忠臣に惚れてないってことだよな」


 小黒の金の目がおかしそうに、細められた。


 宙子は逡巡する。自分の忠臣に対する気持ちなど、深く考えたことはなかった。ただ母の元から逃れたい一心で、求婚を受け入れた。惚れたはれたで結婚するのは、下町に暮らす人々にしか許されないこと。


「惚れているというよりも、立派な方だと思っております」


 考えに考えた無難な答えに、小黒は勢いよく吹き出した。


「傑作だな! 忠臣が本気で女を落としにかかったのに、落とされてないってことか」


 宙子の腹をまたいで小黒は膝立ちになり、天井を仰いでけたけたと笑っている。


「あの、落とすって?」


「忠臣はおまえの親父が結婚をしぶってるっておっさんから聞いて、ガキの頃の話まで持ち出して、おまえを手懐けようとしたんだよ」


 湯島聖堂で感じた宙子の違和感は、正しかったのだ。


「やっぱり。九つの子が出会った女の子を忘れられないなんてこと、あるわけないですよね」


 宙子は答え合わせに丸をもらった気分で、小黒に同意を求めた。すると、天井を向いていた小黒の顔はゆっくりとうつむき始めた。


 右手で垂れた前髪をかき上げ、金の目で宙子を見下ろす。そのしぐさはなまめかしく、錦絵の遊女のような艶やかさだった。


 上品で清廉な印象の忠臣とかけ離れた妖艶さに、宙子の胸はなぜか早鐘を討ち始める。


「普通の女なら、美丈夫に忘れられなかったなんて言われたら即落ちるのに。おまえ、すげーな」


「あ、ありがとうございます」


 すげーと言われても、宙子は『必要』と言われるまで半ば落ちていたようなものだ。


「なあ、宙子。忠臣に惚れてないんだったら、俺に惚れろよ」


 小黒の色気の漂う流し目で名前を呼ばれ、宙子は思わずうなずきそうになった。


 しかしここで、「はい」と答えたら、さっきの続きが始まるのだろう。よく考えたら、いくら体は忠臣でも、中身が別人なのだから不貞を働くことになるのではないか。


 いまさら気づいた宙子は、うまく話をそらす。


「あの、それよりも、どうして忠臣さまは、そこまでしてわたしと結婚なさったのですか? 何かわたしを必要とされることが、あるということですよね」


「話をそらすな」


 小黒は体をかがめ、宙子の顔の左右に両手をつく。人の心を誘惑するずるい表情を浮かべた顔が近づいてきて、宙子の胸はまた激しい律動を刻み始めた。


「でも、説明は後でするって……」


 小黒の上げ足をとってみても、しょせん詮ないことだった。


「だから俺に抱かれたら、教えてやるよ」


「でも、あなたに抱かれたら、不貞を働いたことになります」


 不貞を働いた妻は、相手の男ともども姦通罪で罰せられた。反対に、夫が不貞は働いても何のお咎めもない時代だった。


「俺に実体がないのに、どうやって罰する。この体は正真正銘おまえの夫だろ」


 だめだ、アレをする流れを変えられない。どうしよう……。でも、わたしの夫は忠臣さまだ。


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