第六話 目覚め
ふと宙子が目を覚ますと、秋の冴えた月の光が板敷の床に長く伸びていた。そういえば今日の披露宴は満月だった。
身を起こすと体の下で
わたし、そういえば披露宴の最中に倒れたのだった。
花嫁の披露の場で、当の本人が倒れるなんて大失態である。きっと花嫁は何か病を抱えているか、体に欠陥があるのだと噂が広まるだろう。最初から身分差のある婚姻だと揶揄されているのに、さらにいらない傷をつけてしまった。
視線をさげると、ドレスは脱がされ白い寝間着を着せられていた。束髪に結われていた髪はほどかれ、肩に垂れている。
宙子はドレスから解放された、腰回りをさする。胸を強調し腰のくびれを作り出すコルセットは、このうえもなく息苦しい。おまけに、かかとが高い靴はつま先立ちになる。草履と違って不安定もさることながら、長時間はいていると足に水膨れが出来てきた。
宙子は息苦しさに加え足の痛みにも耐え、忠臣の後ろでひたすら笑みを浮かべ続けた。しかし披露宴の豪華な食事もコルセットの窮屈さで一口も食べられず、空腹と寝不足という体調の悪さからとうとう気を失ってしまったのだ。
宙子はひと眠りして今はだいぶ気分がよくなり、月の光を頼りに辺りを見回す。
腰の高さから天井付近まである縦長の窓にはガラスがはめられ、天井を見上げると宙子の家の天井の倍はありそうな高さにランプの照明がさがっていた。
ここは忠臣が宙子との新婚生活を送るために、母屋である御殿の離れに建てた洋館の寝室だろう。
嵯峨野家の御殿は旧幕時代の大名屋敷をそのまま利用していた。そちらに先々代の当主である忠臣の祖父と、先代の後妻とその息子が住んでいた。
忠臣の母親は忠臣と姉を残し早くに亡くなり、先代である父親はイギリス留学直前に亡くなったそうだ。
親との縁が薄い忠臣は、留学中に下宿していた医師の家庭が理想の家庭に思えたそうだ。その医師のような家庭を築きたいと、洋館で暮らすことを希望した。
宙子はこのような忠臣の考えを、すべて人づてから聞いた。忠臣と言葉を交わしたのは、湯島に出かけた時だけだったからだ。
結婚式の当日まで、新郎と顔を合わせたことのない花嫁がいる時代だ。宙子は忠臣と顔を合わすことができただけ、恵まれている。
一階は台所と食堂に居間それと納戸、珍しい西式トイレと風呂場がついている。二階は書斎、寝室に客間と支度部屋という間取りだ。
西洋の建物と言えば、広尾にある公使館や政府の施設しか知らない宙子にとってこの新居はずいぶん質素な建物に思えた。
しかしかわいらしい外見や、温かみを感じる室内の設えに加え、靴を脱いで室内に入るなどちゃんと日本人がなじめる造りになっているのも好感を持てた。その新居の初めて眠る寝台の上で、宙子はごくりと喉をならした。
今日からここで寝泊まりをするのね。ということは、アレもここで……。
昨日と一昨日、披露宴が終わるまでは母屋で床を延べていた。結婚式は朝から行われ、宙子は陽がのぼる前から起き出し準備に追われた。昼からは親族との披露宴が始まり、夜には精も根も尽き果てくたくたになっていた。
疲れ切った宙子は
明け方布団の中で目を覚まし、自分の状況を把握すると宙子はさっと青ざめた。結婚前に母に重々言い聞かせられていたことを、台無しにしたからだ。
母は嫁ぐ前の晩に、青山家に代々伝わる枕絵を長持ちの底から引っ張り出してきた。
嫁の一番の仕事は、子を産むこと。お家を継ぐ男子をあげてこそ一人前である。そのために、子供の作り方を教えておく。
そう前口上を述べて、母は枕絵を宙子の前に広げた。裸の男女が絡み合う色も鮮やかな絵を見せられ、宙子は目を丸くした。
顔を赤らめ言葉もなく枕絵に見入っている娘に、母は優しく声をかけた。
「心配することは、ありません。万事、忠臣さまにお任せしてあなたは目をつむっていればいいのです。くれぐれも嫌がったり、騒いだりしてはいけませんよ」
「は、はい……」
そう答えたものの、とても一度会った――正確には二度――だけの人とこのような恥ずかしいことが、できるわけがない。
「最初はとても痛いですが、そのうち慣れるというもの。その痛みに耐えられなかった女はいません」
痛い? 恥ずかしいうえに、痛い思いまでするなんて、まるで拷問のようだ。
そう思ったとしても、嫁の務めは果たさねばならない。
「それから初夜の枕元にはかならず、我が家に伝わる守り刀をおきなさい。かならずあなたを守ってくれます」
守り刀には魔除けの力があるという。その刀はちゃんと枕元においたが、大事な初夜に宙子は眠ってしまった。忠臣はあきれ果てているだろうと、隣の布団へ恐々視線を向ける。
しかしそこに誰もいない。いないどころか、布団は宙子が眠る前と同じきれいに整えられており、忠臣が横になった形跡がなかった。
怒って、違う部屋で眠ってしまわれたのかしら。
そう宙子が心配しても、朝食の席で顔を合わせた忠臣はにこやかに朝の挨拶をしてくれた。疲れていたから、アレをせずに一人で寝かせてくれたのだろうと宙子は解釈し、忠臣の優しさに感謝した。
そして迎えた二日目の晩、今度こそはと宙子は床の上に正座して忠臣をじっと待っていた。しかし、待てど暮らせど、忠臣はやってこない。
宙子はそのまま一睡も眠らず朝を迎え、寝不足のまま苦しいコルセットをつけ披露宴に挑み、体調を崩したのだった。
今日で、結婚式も披露宴もすべて終わった。明日からは新しい生活が始まるのだから、今日こそはアレをするのだろう。
宙子がそう寝台の上で覚悟を決めると、扉の向こうから床板がギシギシと軋む音が聞こえてきた。ゆっくりゆっくり廊下を歩く音だ。この家で、生活するのは忠臣と宙子だけ。
薄暗い室内で、忠臣の気配を感じて宙子は身を固くする。扉が開く音がして、宙子は布団をはいで慌てて平伏する。秋の夜長の冷気が、体を覆いぞくりと身震いをした。
まずは、今日のことを謝らないと。
忠臣の足音が近づいてきて、寝台の横でとまる。宙子はどう切り出すか思案していると、「面を上げろ」低く抑揚のない冷たい声が、宙子の胸に深く突き刺さった。あきらかに、いつもの忠臣のおだやかな声音ではない。
どうしよう、怒っておられる……。
いつまでも顔を上げない宙子に焦れたのか忠臣は、「上げろと言っている」と乱暴な台詞を吐きすて宙子を促す。
恐る恐る顔を上げると、白い寝間着を着た忠臣の姿がぼんやりと薄闇の中に浮き上がって見えた。
風呂に入ったのか、いつもきっちりと後ろに流してある前髪が、垂れ下がり忠臣の顔を半分隠していた。
薄い唇の両端が、にゅっと上がる。
「まったく、ようやくか。愛だなんだとめんどくさい」
忠臣がぼそぼそと独り言をこぼしたが、緊張する宙子の耳には届いていない。忠臣の右手がすっと伸びてきて、宙子の肩をとんと押した。
意表をつかれ、宙子は寝台の上に背中から倒れ込む。宙子の視界から忠臣の姿は消え、天井につるされたランプが飛び込んできた。
忠臣に乱暴に扱われすくなからず動転していると、投げ出された宙子の足元の寝台がぐっと沈み込む。忠臣が寝台に上がったのだと思ったら、体に重みを感じ宙子の冷えた体に、忠臣の熱がじんわりとしみ込んでくる。
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