第五話 宙子

 耳に蝉の鳴き声が流れ込んできて、疲れ切った宙子の背中に汗が一筋伝う。


「お疲れになったでしょう、お茶を一服いかがでしょうか」


 ドレスの注文をあらかた終えると、女性の奉公人に宙子は体の至る所を採寸されずっと立ちっぱなしだった。


 嵯峨野家の書生をしている古賀がお茶を運んできた。大きな二重の目をした人懐っこい笑顔が、大人と子供の狭間にいるもの特有の青さを感じる。


「ありがとう存じます」


 礼を述べ、宙子は玉露を口にふくむ。さすが侯爵家だ。よい茶葉を使っているのか、渋みの少ない玉露の甘味が宙子の喉をすべっていく。


「思いのほか、早く終わりましたね」


 若い古賀は、女性の誂えともなれば時間がかかるものだと思っていたのだろう。


「この子は、素直な子なので、わたくしの言うことはなんでも聞いてくれるのですよ。だから、ドレスも迷うことがございませんでした」


 母の言い分に、古賀はあやふやな表情をする。まるで、この母親のドレスを仕立てているようだとでも思ったのだろう。


「仲がよろしいのですね」


 古賀は当たり障りのないことを言い、場を取り繕った。気さくな青年だが、少々口が軽い。使用人の立場を越えている。


 そういえば、書生の傍ら忠臣の秘書もしているとさきほど言っていた。それだけ、忠臣に近い人物なのだろう。


 書生と言っても、親の身分はさまざま。この古賀は、ひょっとすると嵯峨野家の重臣の家柄なのかもしれない。そうであれば、この物おじしない態度も納得できた。


「ほほ、仲がよいというか、わたくしはこの子がかわいくて」


「それはうらやましい。僕は兄弟が多くて、親に手をかけてもらった覚えがございません」


「まあまあ、男の子だと仕方がありませんわ。うちにも息子がおりますけれど、手をかけると嫌がりますのよ」


 母は古賀の態度を不快に思うどころが、好ましく思っているようだ。会話をやめる気配がない。


「ご兄弟は、何人いらっしゃるのですか?」


 古賀の他愛ない問いに、宙子の額に嫌な汗が浮く。


「三人でした。この子が一番上で、次は妹、一番下は跡取りの男子です。妹はコレラで亡くなってしまったのですけどね」


「妹さんを亡くされていたのですね。それは、大変なご心痛でしたでしょう。」


 古賀は、憐みの視線を順番に母と宙子に送ってきた。


「いえいえ、亡くなった子をとやかく言うものではございませんけれど、妹は親の言うことを碌に聞かないどうしようもない子でした。本当に、この子が生き残ってくれてよかったですわ」


 母は宙子の顔をのぞきこみ、追従を求めるように口を開いた。


「ねえ、鏡子。あなたの妹の宙子は強情でしたわね」


 母は姉の名を呼び宙子に同意を求めると、古賀の口からは、「えっ?」と驚きの声がもれる。古賀は、宙子の名前を宙子であると認識していた。


 遠くから聞こえる蝉の声が、ますます大きくなり宙子を急き立てる。早く何か言わないと、古賀が余計なことを口にするかもしれない。そうしたら、母は癇癪を起こして倒れてしまう。


 母は姉を亡くしてからしばしば錯乱する病を患っていた。宙子はすこしすねた声をなんとか絞り出す。


「お、お母さま。そんなこと言わないで。宙子はわたしにとってかわいい妹でしたのよ」


 宙子は『わたしは宙子』と心の中で何度も繰り返しながら、母にやんわり抗議する。なんども名前を唱えないと、自分というものが姉に乗っ取られそうだった。


「本当に、あなたは優しい子ね」


 母はそう言って、宙子の頭を鏡子であると疑いもせずになで続けた。


「ねえ、疲れたでしょ。肩をもみましょうか」


 死んだ宙子から話題をそらしたくて、鏡子のフリをする宙子はいつものご機嫌取りを試みる。


「ありがとう、あなたに肩をもんでもらったらとても楽になるのよ。他の人よりも上手なのでしょうねえ」


 宙子が十二の時に、姉は亡くなった。家の没落、女中の裏切り、世間の嘲笑。そこに、最愛の娘の死が重なり母の心は粉々に壊れた。


 姉が亡くなってから部屋に閉じこもり、弔いにも出てこないふさぎようだった。しかし、突然部屋から出てきたかと思うと、宙子を抱きしめ泣き叫んだのだ。


「ああよかった!! 鏡子は生きていたのね。死んだのは宙子だったのよ」


 最初、母は姉と宙子を間違えただけだと思った。鏡子と宙子は年子で体格も同じぐらい。しかし顔つきはまるで違う。


 姉は従順さがにじみ出たやわらかな顔つきで、宙子は強情さが伺えるきりっとした顔をしていた。おまけに、黒い真っすぐな髪の鏡子と違い、宙子の髪は赤く縮れていた。はたから見ても、間違えようのない二人だ。


 母は間違えたのではなく、自分の中から宙子という存在を姉の代わりに殺したのだった。


 戸籍上亡くなったのは姉の鏡子であるが、婿養子の父も母に話を合わせた。宙子ひとりがまんすれば、家庭が丸く収まると考えたのだろう。


 学校でも先生に願い出て、鏡子と名乗ることになった。この時代、通称名が変わることはよくあることだ。こうして宙子という名を誰も呼ばなくなり、忘れられていった。


 唯一、弟の京助きょうすけだけはおかしいと言ったけれど、子供の言うことなど誰も耳を傾けない。


 母はかわいそうな人なのだ。最愛の娘が生きている幻想の中でしか生きられなくなった。わたしもその幻想の中で姉のフリをして従順にしていれば、母からかわいがってもらえる。


 母が悪いのではない、弱った母の心の闇を利用して姉への愛情をくすねている宙子が悪いのだ。


 いつも姉を愛おし気に撫でるように、自分も撫でてもらいたかった。やさしい言葉をかけてもらいたかった。姉の名前で呼ばれることさえがまんすればいい。宙子という名前を忘れてしまえばいいと思っていたのに。


 あの人がわたしの名前を呼んだから、母の見せてくれるまやかしの夢から覚めてしまった。


 夢から目覚めたら、同じ夢を二度と見ることはできない。


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