第十話 朝の風景

 翌日の新婚生活一日目、宙子は夜明けとともに目を覚まし身支度から始めた。


 ほどいていた髪を簡単にまとめ、支度部屋の箪笥から娘時代に着ていた紺色のお召しを出したところで、扉がトントンと叩かれた。


「はい」と返事をすると、女の声が返ってきた。


「若奥さま、マキでございます。失礼いたします」


 声と同時に扉が開くと、三十路すぎの少々肥えた女性が姿を現した。離れに通う女中のひとりだ。


 マキは無表情で、きびきびと板間の上に正座をして手をついた。


「今日から若奥さま付きの女中として、勤めさせていただきます」


 本来ならば、良家の子女の輿入れには実家から女中を連れてくるものだ。しかし青山家の女中は、母の乳母をしていた老婆がひとりきりだった。


 マキの四角四面な挨拶に、宙子はあわてて頭をさげた。


 それから、マキのなすがままに身支度が整えられていく。髪は日本髪か束髪かと訊かれ、宙子は束髪をお願いした。


 宙子の赤く縮れた髪でも束髪に結えば、いくぶんましに見えるからだ。


 西洋式の化粧台の前に座らされ、縮れた髪を丁寧にとかされ時間をかけて束髪に結われていく。うすく化粧も施された。


 それが終わると宙子が取り出したお召しは箪笥にしまわれ、代わりにマキは薄紅色の鮫小紋を取り出す。


「この箪笥の中の着物はすべて、若奥さまのために誂えたものです。今日はこちらのお着物に、乱菊模様の帯でいかがですか?」


 マキは明るい色調にまとめられた装いに、帯締めと帯揚げも次々合わせていく。宙子は黙って従うしかなかった 


 すべての支度が整い鏡の前に立つと、いつもどこか冴えない姿だった宙子の外見は、若さ輝く良家の奥さまにちゃんと見えていた。


「ありがとうございます」


 自分の姿に驚きを隠せない宙子がマキに礼を言うと、「礼など必要ございません」と素気なく返された。


「あの、そろそろ旦那さまのお支度を……」


 客間で寝ている忠臣の支度にかかろうと宙子が椅子から立ち上がったところで、マキがぴしゃりと口を挟む。


「旦那さまではございません。若殿さまとおっしゃってください。そして、母屋にお住いのお方は大殿さまとお呼びください」


 若殿さまに、大殿さま……。時代がかった呼称に宙子は面食らう。盛大な結婚式と披露宴を経験したが、あれはまさに宙子にとって夢の中の出来事だった。


 日常生活が始まり家庭的な洋館の中にいれば、ついつい自分が大名華族に嫁いだことを忘れそうだった。


「若殿さまのお支度は、ご心配には及びません。あちらではすべて、ご自分でされていたそうです」


 宙子は目を見開く。華族の当主ならば、何人も付き人に世話をさせるもの。それはすべて自分でするとは……。あちらとマキが言ったイギリスでは、本当に庶民と変わらない暮らしをしていたのだろう。


 あっけにとられている宙子をマキは階下へと急かす。優美な曲線の手すりのついた折り階段の半分まで降りてくると、嗅いだこともない香ばしい何かが焼ける匂いが漂ってきた。


 マキがくる前に、顔を洗いに降りた時にはまだ誰も台所にはいなかった。


「朝の支度を手伝わないと」


 宙子は慌てて階段を降りようとすると、後からついてきたマキに止められる。


「炊事は、女中にお任せください」


「では、わたしは何をすればいいのでしょう?」


 実家で年老いた女中といっしょに朝食の準備をしていた宙子にとって、華族の奥方さまの仕事など想像すらできないことだ。


「お食事の後に、母屋でのお務めがございますので」


 宙子は嫁に来た身である。嵯峨野家の風習に従うしかない。食堂に入ると、紺地の井桁模様のかすりを着た背の小さい女の子といっていい年ごろの女中が、洋卓テーブルの上に小判型の黄色い食べ物と茶色く細長い物が乗せられた皿をおいていた。


 宙子が入って来たことに気がつくと、ぴょこんと素早く銀杏返しに結った頭をさげた。


「こちらの洋館で水仕事をいたします小梅でございます。お見知りおきくださいませ」


 小梅は溌溂と明るく屈託のない声で、挨拶をする。小梅は女中らしくすました顔をしているが、本来持っている愛嬌がにじみ出ていた。


「宙子です。お世話になります。今日の献立は何かしら」


 宙子の問いに、小梅はうれしげに答えた。


「オムレツにベーコンでございます」


 宙子は小梅が言った食べ物を知らなかったが、皿の上の食べ物がオムレスとベーコンだと理解する。


「おいしそうね。初めて食べるわ」


 知ったかぶりをしない宙子の台詞に、小梅は少し意外な顔つきになる。


「オムレツは玉子のお料理で、ベーコンは豚肉を塩漬けにしたものです」


 ここで、マキが二人の会話に割って入る。


「こちらの洋館では、一日おきに朝食で西洋料理をご用意いたします」


「小梅さんがつくるの?」


 宙子の問いに、小梅は「はい」と得意そうに顔を紅潮させた。


「すごいわね。こんなに綺麗でおいしそうなものがつくれるなんて」


 オムレツは形もさることながら色も黄金色で、小判のように輝いていた。宙子はこんな綺麗なものを、どうやって作るのかと興味がわく。しかし、宙子が教えてほしいと言っても、マキに止められるに決まっている。


「母屋に西洋料理も作れる方がいらっしゃって、教えていただきました。夕食にお出しするような手の込んだ西洋料理はまだまだ作れませんけど」


 この小梅という女中の飾らなさが、嵯峨野家に来て緊張の続く宙子をほっとさせた。


「Good morning.なんだか、仲良しになっているようですね」


 忠臣が白いシャツにネクタイ姿で食堂に入ってきた。一同は一斉にお辞儀をする。


 宙子が手伝わなくても、髪はきちんと整えられ洋装を着こなしていた。忠臣は昨晩無花果をむいていた、どこか所在なげな様子など一切感じさせない、晴れやかな表情をしている。


「宙子さんその着物、よくお似合いです。秋に咲く桜のようにうつくしい」


 日本の男性が、女性の容姿を褒めることなどめったにないことだ。慣れぬ賛辞を受け、宙子はごにょごにょと口の中で、「ありがとうございます」と礼を述べていた。


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